姉からの手紙は、雨の日に届いた。
封筒の右上に切手が貼ってある。濡れないように気をつけてくれたのだろう、配達員は玄関の郵便受けの奥まで差し込んでいた。それでも端が少し湿り、指にひんやりとした感触を残した。
宛名は水瀬澪。差出人の欄には、水瀬紗枝、とあった。
姉が死んでから、十二年になる。
澪は立ったまま、もう一度、名前を見た。似た名前の別人から届く理由はない。細い字で書かれた「紗」の糸へんが、姉の書き方に似ていた。最後の点が、ほんの少し右に離れている。
それだけなら、偶然かもしれない。
封を切らず、台所の机に置く。窓の外では、雨が向かいのアパートの手すりを叩いていた。
澪は記録修復の仕事をしている。破れた紙を補い、汚れを落とし、ときには水に浸かった古い帳簿を一枚ずつ乾かす。だから、手紙に触れる前にはいつも手を洗う。今日もそうした。蛇口をひねり、石鹸を泡立て、指の間まで洗って、清潔な布で拭いた。
時間を稼いでいるのだと、自分でもわかっていた。
封筒を裏返す。糊付けされたところに、丸い青色の印が押されていた。傘の絵と、かすれた文字。澪には最初、「雨」という字しか読めなかった。
切手には郵便局の消印がある。日付は昨日だった。
昨日、誰かがこの手紙を出した。
澪は引き出しからペーパーナイフを取り出し、封筒の上端を薄く切った。中には便箋が一枚。折り目を開くと、短い文があった。
――澪へ。
火事の前に、私は図書館を出た。
お母さんの店に、まだ残っているものがあります。
紗枝
便箋の下半分は白かった。澪はそこに何か透けていないか、窓にかざした。向かいの建物の影が映るだけだった。
十二年前の六月、市立図書館で火災が起きた。火が広がったのは閉館後の夜で、司書だった姉を含め、七人が亡くなった。翌朝から新聞もテレビも、その数字を繰り返した。
澪が覚えているのは、体育館の床の冷たさだ。避難した人や職員の家族が集められ、何度も名前を呼ばれた。母は澪の隣に座り、濡れたハンカチを握っていた。誰かが姉の名前を口にしたとき、母の手が一度だけ開いた。
それから先のことは、思い出そうとすると、いつも雨の音に邪魔をされる。
澪はスマートフォンで母に電話をかけた。
三回目の呼び出しでつながった。
「どうしたの」
「姉さんの名前で、手紙が来た」
向こうで何かが落ちた。小さく、硬い音だった。
「お母さん?」
「ごめん。箸を落としただけ」
母の声はいつもと変わらないようで、少し遠かった。
「手紙って、どんな」
「火事の前に、図書館を出たって。あと、店に残っているものがあるって書いてある」
しばらく返事がなかった。澪は通話画面を確かめた。切れてはいない。
「変なことをする人がいるのね」
「誰かに心当たりは?」
「ないわ。封筒は捨てないで。警察に相談したほうがいいかもしれないから」
「うん。私、今日そっちに行く」
「来なくても」
母は言いかけて、息をついた。
「……来るなら、足元に気をつけて」
*
電車を降りると、町は澪の記憶より狭かった。
駅前の菓子店はコインランドリーになり、バス停の屋根には新しい時刻表が貼られている。商店街を抜ける途中、閉じたシャッターの前に、傘を差したまま立っている人がいた。誰かを待っているのかと思ったが、近づくと、シャッターに貼られた閉店の挨拶を読んでいた。
実家の文具店も、三年前に店を閉めた。母は今、店の奥の住居部分で一人暮らしをしている。
ガラス戸の向こうに、色あせたノートと鉛筆が並んでいた。値札はまだ付いたままだ。澪が戸を開けると、奥から母が出てきた。
「濡れたでしょう。タオルを持ってくる」
母は澪の顔を見るなりそう言った。手紙のことには触れない。澪も呼び止めず、店内に残った什器を眺めた。
壁際の棚に、小さな郵便受けが置いてある。木製で、投函口の上に手描きの傘があった。昔、商店街の店主たちが近所への配達を引き受けていた頃のものだ。澪は小学生の頃、そこに友達への手紙を入れたことがある。
手紙の封筒にも、傘の絵があった。
母がタオルを持って戻ってきた。
「これ、まだあったんだ」
「捨てるのが面倒でね」
「姉さんの手紙の裏にも、傘の印があった」
母の指が、タオルの端を強くつまんだ。
「見せて」
澪は透明な袋に入れた封筒と便箋を渡した。母は袋の外から文字を目で追った。表に返し、裏に返し、また表を向ける。
「……似てるわね」
「字が?」
「ええ」
母はそれ以上言わず、手紙を返した。澪は袋を鞄に戻した。
「店に残っているものって、何か思い当たる?」
「この店には何でも残っているから」
母は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「紗枝のものなら、奥の棚に少し。あなたが持っていくと言っていた箱も、そこにある」
澪は今月、実家に置いたままの道具を引き取る約束をしていた。修復用の刷毛や紙を収めた、古い木製ケースだ。仕事で使っていたものではなく、姉から譲られたまま、ほとんど開けていない。
母に案内され、店の奥へ入る。廊下の突き当たりに棚があり、その下段にケースが置かれていた。角に擦れた跡がある。上蓋には、図書館で資料を扱っていた頃の姉が貼った、小さな白いラベルが残っていた。
澪は両脇に手をかけ、持ち上げた。
「重い」
思わず声が出た。予想よりずっと重く、手首に力を入れ直す。
「何か入ってるの?」と母が尋ねた。
「道具だけだと思ってたけど」
澪は廊下にケースを下ろし、留め具を外した。中には刷毛が二本、薄葉紙の包み、それから古い布が入っていた。どれも軽い。包みを持ち上げても、底のほうに手応えが残るような気がした。
ただの思い違いかもしれない。木そのものが水分を含んでいるのかもしれない。澪は包みを元の位置に戻し、蓋を閉めた。
母は廊下の入り口に立ったまま、ケースを見ていた。
「それ、今日は置いていってもいいのよ。雨だし」
「車を呼ぶから大丈夫」
「そう」
母は頷いたが、そこを動かなかった。
澪の鞄の中で、スマートフォンが震えた。知らない番号からだった。出るか迷っているうちに切れ、すぐに短いメッセージが届く。
『突然すみません。地元紙の久世亮です。お姉さんのことで、お話を伺えませんか』
久世。その名前には覚えがあった。高校生の頃、姉と図書館の前で話していた青年だ。姉の葬儀にも来ていた。
澪は文字を打った。
『姉のことで、何を?』
返事はすぐに来た。
『今日、あなたに届いた手紙のことです』
澪は廊下の向こうを見た。母はいつの間にか、店へ戻っていた。
手紙の話をした相手は、母だけだ。
ガラス戸の外を、傘を差した人が通り過ぎる。雨はさっきより強くなっていた。