明日を縫う、忘却の花嫁

第1話 赤い糸と、忘れられた子

「返し縫いはね、少し戻ってから、先へ進むの」  母の声が、針の先に宿っていた。破れた鞄を前に泣いていた幼い私に、母は赤い糸を通した針を渡してくれた。ひと針戻り、二針進む。不格好な縫い目でも、鞄はまた使えるようになった。  仕事帰りの駅で悲鳴が上がったのは、隣の女の子の袖口にほつれを見つけたときだった。私はとっさにその腕を引いた。足元が傾き、その後のことは覚えていない。      *  目を開けると、石畳の隙間に白い花が咲いていた。  市場らしい広場には色鮮やかな布が張られ、遠くの屋根の向こうに白い塔がそびえている。見覚えのない服と文字。なのに、行き交う言葉の意味だけはわかった。 「どうしよう」  割れたスマートフォンは動かない。あの女の子は無事だろうか。母は心配しているだろうか。  左袖を握る。今朝、ほつれを直した赤い返し縫いが指に触れた。大丈夫。一針ずつやればいい。そう自分に言い聞かせたとき、市場の奥から泣き声が聞こえた。 「お母さん……」  青い上着の男の子が立ち尽くしていた。通り過ぎる人に手を伸ばしても、誰も気づかない。足元には薄い霧が這っている。 「ねえ、迷子?」  しゃがんだ私に、男の子は目を見開いた。 「お姉ちゃん、ぼくが見えるの?」 「見えるよ。ちゃんと」  彼は唇を震わせた。上着の袖が裂け、銀色の糸がほつれている。霧はその糸を引っ張っているようだった。 「お名前は?」 「ルカ。お母さんと買い物に来たのに、急に誰もぼくを見なくなって」  上着の布から、かすかな温かさが伝わる。明日の朝も、母と一緒にご飯を食べたい。そんな願いが、なぜか胸に浮かんだ。 「上着、直してもいい? 勝手には触らないから」  ルカが頷く。私は鞄から裁縫道具を出し、白い糸を針に通した。仕事柄、持ち歩く癖がある。 「痛かったら言ってね」  ひと針戻って、二針進む。母の教えた通りに、布に余裕を残す。最後の結び目を作ると、指先に陽だまりのような熱が触れた。霧がほどけ、石畳の花が再び見えた。 「……ルカ?」  果物屋の女性が籠を落とし、駆け寄ってきた。 「どこにいたの、探したのよ!」 「お母さん!」  二人が抱き合うのを見て、私は息を吐いた。けれど、周りの人たちは怯えた顔で私の針を見つめていた。 「あの娘が縫った途端、霧が消えた」 「記憶泥棒だ!」  声が波紋のように広がる。 「待ってください。私はただ、破れた服を――」  ルカの母親は息子をかばうように抱き寄せた。石畳の向こうから金属の靴音が近づき、紺色の外套をまとった人たちが群衆をかき分けてくる。 「王宮の者だ! 道を開けろ」  逃げるべきか、説明するべきか。立ち尽くした私の袖を、誰かが後ろから引いた。 「こっち。早く」  配達鞄を抱えた少年が、真剣な顔で路地を指していた。左袖の赤い糸が、彼の指に引っかかる。  少し戻ってから、先へ進む。  私は針をしまい、少年の手を取った。

コメント

コメントを投稿するにはログインが必要です

ログイン

まだコメントがありません

レビューを投稿するにはログインが必要です

ログイン