少年に手を引かれ、私は路地へ飛び込んだ。背後では金属の靴音が石畳を叩いている。
「こっち。頭に気をつけて」
古い扉をくぐった途端、額を梁にぶつけた。少年は振り返って、気まずそうに眉を下げる。
「もう少し早く言えばよかった」
「次はお願い」
薄暗い部屋には空の籠と包み紙が積まれ、乾いた薬草の匂いがした。少年は扉の隙間から外をうかがう。
「ここ、配達の荷物置き場なんだ。しばらく隠れていられると思う」
「助けてくれてありがとう。私はミオ」
「ノア。さっきの子、無事でよかった」
ルカが母親に抱きしめられた姿を思い出し、私は頷いた。けれど、母親が最後に私へ向けた怯えた目も忘れられない。
「記憶泥棒って、何?」
ノアは肩の鞄を下ろした。
「霧に触れると、周りの人がその人を忘れることがあるんだ。自分が大事なことを忘れる時もある。誰かが記憶を盗んだんだって、そう噂する人もいる」
「本当に盗まれたかどうかは、わからないの?」
「うん。でも、わからないままだと怖いから」
私は裁縫道具の入った鞄を抱き寄せた。ルカの袖を縫ったとき、指先に温かさを感じた。あれは何だったのだろう。
ノアが鞄から布包みを出す。中には指先の破れた手袋があった。
「パン屋のおじさんへの届け物。触ってみる?」
「持ち主のものなのに、いいの?」
「配達を頼まれた時、破れたところを誰かに見てもらっていいって言われてる」
私はそっと手袋を手に取った。冷たい朝、籠を持つ手。誰かに焼きたてのパンを渡したい――そんな思いが、胸の奥に浮かぶ。
「明日の朝、誰かにパンを届けたい……そんな感じがする」
ノアは目を丸くした。
「おじさん、明日、孫のところへ持っていくって言ってた」
明日。ルカの上着に触れたときも、母親と一緒に朝食を食べたいという思いが伝わってきた。失くした記憶ではなく、これから迎えたい朝への願い。
「この国には、願いを糸に込めた暁布っていう布があるんだ。霧を遠ざけるために使う。ルカの上着にも、ミオが願いを縫い留めたのかもしれない」
「私が? でも、あの子に聞いたのは、上着を直していいかどうかだけ」
知らないうちに大事なものに触れていたのなら、ルカにちゃんと話さなければ。そう思った時、路地の向こうで笛が鳴った。
ノアが窓の隙間をのぞき、顔色を変える。私も隣に立った。紺色の外套を着た兵たちが市場の入口を塞ぎ、人々に声をかけている。別の通りにも兵が見えた。
「市場を封鎖してる……」
兵の列の向こうから、黒髪の若い男が馬を降りた。露店の女性が落とした果物を拾い、手渡してから、彼は静かに周囲を見渡す。
「あの人は?」
「第二王子のエリオット殿下。どうしてここに」
王子がこちらの路地へ顔を向ける。目が合った、気がした。
ノアが窓を閉める。薄い木の向こうで、靴音が一つ、また一つと近づいてきた。
私は左袖の赤い糸を握り、息を止めた。