明日を縫う、忘却の花嫁

第36話 ひとつに集めないために

 封じられた硝子箱の代わりに、工房の机には湯呑みが五つ並んでいた。 「実験道具として使うには、ずいぶん上品ね」  セラが言う。ノアはその横に鉛筆で丸を五つ描き、私は水差しを持ち上げた。 「布の力を水だと思ってください。全部を一つの器で受けたら」  最初の湯呑みに注ぐ。水は縁まで満ち、少しこぼれた。 「今の王宮の結界みたいに、一か所に負担が集まる。小さな布に分けてつなげば、一人に犠牲を集中させずに済むかもしれません」  残りの器にも水を分ける。エリオットは机の向こうで、その様子を黙って見ていた。 「私を湯呑みに例える人は、君くらいでしょうね」 「欠けたら困る、高級品です」 「王子様料金より高そうだ」  彼が笑ったので、私も笑い返した。けれど、掌を覆う手袋に視線が落ちる。笑えることと、彼が背負っているものが軽いことは別だ。  セラは指先で湯呑みを一つ離した。 「問題は、その器が途中でなくなったときよ。昨日の試作では、片方が同意を撤回したら効力が失われた。実際の霧の中で同じことが起きたら?」 「守りが途切れる」 「そこへ残りの布の力が流れるのか、別の場所へ負荷が移るのかもわからない。分ければ必ず安全になるとは言えないわ」  私は水差しを置いた。水で形を真似するだけでは、霧の中の力の動きはわからない。 「やめたい人を引き留めずに、隙間を守る方法が必要ですね」 「ええ。しかも、その人がやめる理由を説明しなくてもいい方法が」  ノアが丸と丸の間に線を描いた。一本を消し、別の丸へ線を引き直す。 「道が塞がっても、別の道を通れるようにするのは? 配達なら、橋が壊れても迂回できるようにしておく」 「面白い。ただ、線を増やせば必ず強くなるとは限らないわ」  セラは紙の端に「未確認」と書いた。次に「接続が切れたとき」「同意の撤回」「霧の量」と、確かめるべきことを並べる。 「箱は宰相に封じられました。もう試せないんでしょうか」 「危険を管理できる場所と手順を、改めて申請しましょう」とエリオットが答える。「認められるまで、勝手には開けない」  焦りが喉まで上がった。彼の明日は、待ってくれるのだろうか。でも、失われた街の話を聞いたばかりだ。私たちが急ぐ理由は、誰かを危険にさらしていい理由にはならない。 「申請には失敗した結果も入れます。宰相が知っていることも、いつか教えてもらえるように」 「その『いつか』が来るよう、私も頼んでみます」  エリオットはノアの紙を押さえた。大きな手袋の指先が、描かれた線を隠す。 「私の負担を減らすために、別の誰かの明日を奪うなら意味がない。参加した人に何が起きるのか、それも調べてください」 「もちろんです。殿下が、自分のことまで検証項目に入れるのは意外ですけど」 「君が入れ忘れそうだったので」 「忘れてません」  少しだけむきになると、彼は目を細めた。その表情を見ていたいと思った自分に気づいて、私は慌てて紙の上へ視線を戻した。  ノアが空いていた湯呑みを私へ寄せる。 「これは何の役?」 「今のところ、お茶を飲む人の役です」  水差しを取り上げ、残っていた水を流しに捨てる。代わりにセラが温かい茶を注ぐと、部屋に甘い香りが広がった。研究の途中でも、休む必要はあるらしい。 「次は小布の数を増やす前に、一本の接続を安全に外す手順を考えましょう」とセラが言う。「観察役も必要よ。縫っている本人には見えない変化があるかもしれない」 「俺が描く。うまくいかなかったところも」  ノアは鉛筆を持ち直した。  私は湯呑みを両手で包む。一つの器では受け止めきれないものを、分ける。そんな考えに、ようやく形ができた。でも、それはまだ答えではなく、たくさんの問いの始まりだ。  扉を叩く音がして、衛兵が書状を差し出した。王宮からの通達には、近く開かれる舞踏会の準備について記されている。 「こんなときに舞踏会?」  私が目を丸くすると、エリオットは書状を受け取り、何かを考えるように折り目をなぞった。 「こんなときだからこそ、使えるかもしれません」  何に、と尋ねる前に、彼はいたずらを思いついたように微笑んだ。  封じられた硝子箱の代わりに、工房の机には湯呑みが五つ並んでいた。 「実験道具として使うには、ずいぶん上品ね」  セラが言う。ノアはその横に鉛筆で丸を五つ描き、私は水差しを持ち上げた。 「布の力を水だと思ってください。全部を一つの器で受けたら」  最初の湯呑みに注ぐ。水は縁まで満ち、少しこぼれた。 「今の王宮の結界みたいに、一か所に負担が集まる。小さな布に分けてつなげば、一人に犠牲を集中させずに済むかもしれません」  残りの器にも水を分ける。エリオットは机の向こうで、その様子を黙って見ていた。 「私を湯呑みに例える人は、君くらいでしょうね」 「欠けたら困る、高級品です」 「王子様料金より高そうだ」  彼が笑ったので、私も笑い返した。けれど、掌を覆う手袋に視線が落ちる。笑えることと、彼が背負っているものが軽いことは別だ。  セラは指先で湯呑みを一つ離した。 「問題は、その器が途中でなくなったときよ。さっきの試作では、片方が同意を撤回したら効力が失われた。実際の霧の中で同じことが起きたら?」 「守りが途切れる」 「そこへ残りの布の力が流れるのか、別の場所へ負荷が移るのかもわからない。分ければ必ず安全になるとは言えないわ」  私は水差しを置いた。水で形を真似するだけでは、霧の中の力の動きはわからない。 「やめたい人を引き留めずに、隙間を守る方法が必要ですね」 「ええ。しかも、その人がやめる理由を説明しなくてもいい方法が」  ノアが丸と丸の間に線を描いた。一本を消し、別の丸へ線を引き直す。 「道が塞がっても、別の道を通れるようにするのは? 配達なら、橋が壊れても迂回できるようにしておく」 「面白い。ただ、線を増やせば必ず強くなるとは限らないわ」  セラは紙の端に「未確認」と書いた。次に「接続が切れたとき」「同意の撤回」「霧の量」と、確かめるべきことを並べる。 「箱は宰相に封じられました。もう試せないんでしょうか」 「危険を管理できる場所と手順を、改めて申請しましょう」とエリオットが答える。「認められるまで、勝手には開けない」  焦りが喉まで上がった。彼の明日は、待ってくれるのだろうか。でも、失われた街の話を聞いたばかりだ。私たちが急ぐ理由は、誰かを危険にさらしていい理由にはならない。 「申請には失敗した結果も入れます。宰相が知っていることも、いつか教えてもらえるように」 「その『いつか』が来るよう、私も頼んでみます」  エリオットはノアの紙を押さえた。大きな手袋の指先が、描かれた線を隠す。 「私の負担を減らすために、別の誰かの明日を奪うなら意味がない。参加した人に何が起きるのか、それも調べてください」 「もちろんです。殿下が、自分のことまで検証項目に入れるのは意外ですけど」 「君が入れ忘れそうだったので」 「忘れてません」  少しだけむきになると、彼は目を細めた。その表情を見ていたいと思った自分に気づいて、私は慌てて紙の上へ視線を戻した。  ノアが空いていた湯呑みを私へ寄せる。 「これは何の役?」 「今のところ、お茶を飲む人の役です」  水差しを取り上げ、残っていた水を流しに捨てる。代わりにセラが温かい茶を注ぐと、部屋に甘い香りが広がった。研究の途中でも、休む必要はあるらしい。 「次は小布の数を増やす前に、一本の接続を安全に外す手順を考えましょう」とセラが言う。「観察役も必要よ。縫っている本人には見えない変化があるかもしれない」 「俺が描く。うまくいかなかったところも」  ノアは鉛筆を持ち直した。  私は湯呑みを両手で包む。一つの器では受け止めきれないものを、分ける。そんな考えに、ようやく形ができた。でも、それはまだ答えではなく、たくさんの問いの始まりだ。  扉を叩く音がして、衛兵が書状を差し出した。王宮からの通達には、近く開かれる舞踏会の準備について記されている。 「こんなときに舞踏会?」  私が目を丸くすると、エリオットは書状を受け取り、何かを考えるように折り目をなぞった。 「こんなときだからこそ、使えるかもしれません」  何に、と尋ねる前に、彼はいたずらを思いついたように微笑んだ。

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