「その布を、二度と結ぶな」
宰相の声が工房の空気を固くした。欠けた懐中時計は、彼の掌の中で小さく軋んでいる。
私は針箱から手を離した。机の上の青と白の端切れは、もう結ばれていない。セラが同意を取り消し、私たち自身でほどいたばかりだ。
「何が危険なのか、教えてください」
「見ればわかるだろう。片方が抜ければ、守りが消える」
「はい。だから、まだ箱の中でしか試していません」
私はノアの記録を示した。霧が退いた距離も、二度目には退かなかったことも書いてある。宰相は紙を受け取らず、端切れを見つめた。
「同じことを言った者たちがいた。小さく試せば大丈夫だと。結び目を増やせば、皆を守れると」
エリオットが一歩前に出る。
「以前にも実験があったのですか」
宰相の指が時計を強く握り締めた。金属の欠けた縁が、皮膚に食い込んでいる。
「街が一つ失われた」
ノアの鉛筆が止まった。
「布をつないだ結果、ですか」とセラが尋ねる。
「不完全な実験の結果だ。十分な備えもなく、人々に希望を語り、そして街は霧に呑まれた」
「いつ、どこで? 記録があれば検証できます」
「検証?」
宰相は笑わなかった。窓からの光が時計の傷に引っかかり、細い線になった。
「失ったものを、紙の上で検証できるというのか」
その問いには答えられなかった。職人の娘の顔を、黒い糸を切っても返せなかった日のことが胸に刺さる。知らなかったでは済まないことが、私にもある。
「返せないものがあるのは、知っています」
やっとそう言うと、宰相の視線が私に向いた。
「でも、何が起きたのか知らないままなら、同じ間違いを避けることもできません。話せるところだけでも、聞かせてください」
「話せることはない。あの方法は人を守らない。それで十分だ」
彼は時計を上着の内側へしまいかけ、ふいに手を止めた。蓋が少し開いている。慌てて閉じる仕草は、命令を下すときの彼より、ずっと不器用に見えた。
エリオットが静かに言う。
「私たちも、今日の結果だけで街に使うつもりはありません。けれど、今の結界にも犠牲があります」
「殿下が背負うものを、軽く見たことはございません」
「ならば、他の方法を調べることまで禁じないでください」
宰相は王子の顔を見た。その視線が、手袋をした掌へ落ちる。次の言葉を探しているような沈黙の後、彼は首を横に振った。
「一人に負担があるとしても、街を丸ごと失うよりはましです」
私は息を呑んだ。エリオットは怒鳴らなかった。ただ、その言葉を受け取るように背筋を伸ばした。
「私が代価であることは事実です。それを理由に、ほかの人々の選択を封じる権限までは、あなたにも私にもありません」
宰相の眉がわずかに動く。セラは硝子箱の蓋を両手で押さえた。
「撤回された布がどうなるかは、今も確認したばかりです。危険はあります。私たちは結果を隠しません」
「結果を知る頃には遅いこともある」
宰相は衛兵に、箱をそのまま封じるよう命じた。セラが鍵を渡し、衛兵は扉の外へ運ぶ。私は追いかけなかった。中の霧を安全に保つ手順は、彼にも伝えられている。
「記録は?」とノアが尋ねた。
「提出しろ」
ノアは紙を抱え直した。エリオットが宰相を見る。
「原本は提出します。ただし、写しを残す。失敗も含め、今日ここにいた全員が読める形で」
「殿下」
「失われた街のことも、いずれ調べます。知らないまま危険を繰り返すわけにはいかない」
宰相は長い間、返事をしなかった。やがて記録用紙を受け取り、厳しい顔のまま背を向ける。
「調査で死者は戻らない。それだけは忘れるな」
扉が閉まると、部屋に針が転がる音がした。さっき私が袖で押したらしい。エリオットが拾い、尖ったほうを自分の指に向けないよう、針箱へ戻してくれる。
「ありがとうございます。危ないところでした」
「私が刺したら、治療費を請求されますか」
「王子様料金です」
「それは怖い」
彼は笑ったが、その手はすぐに手袋の上から掌を押さえた。宰相の言葉が、彼を守るためのものだったとしても、傷つかなかったわけではない。
「一人で背負うしかないって、決めたくありません」
私が言うと、彼は窓の外へ視線を向けた。
「私もです。ただ、代わりに街を危険にさらすなら、喜べない」
「はい。だから、急いで答えを出すんじゃなくて、危険を数えましょう」
ノアが新しい紙を広げ、さっきの記録を写し始めた。セラはほどいた二枚を並べ、その間に指一本分の隙間を置く。
「この隙間をどう守るかね。誰かがやめたいと言ったときにも」
私は頷いた。結べることだけでは足りない。ほどけた後に何が起きるのか、その先まで考えなければ。
扉の外では、宰相の足音が遠ざかっていく。欠けた時計と、失われた街。まだ名前も知らないその場所を、私は記録の余白に書き留めた。
――かつての実験。何が足りず、誰が被害を受けたのか。
答えのない問いの横で、青い糸の端がかすかに揺れていた。