鐘の音は、廊下の突き当たりから聞こえた。
「暁布です」
セラの顔から血の気が引いた。私はノアの絵を抱えたまま、彼女の後を追う。曲がり角では、音を聞いて駆けつけたエリオットと鉢合わせた。
「何が起きたんですか」
「まだわかりません。ミオさん、無理に近づかないで」
そう言ったセラ自身の足は速い。私たちは石の階段を下り、衛兵が開けた重い扉をくぐった。
地下の広間に、巨大な布が垂れていた。
夜明け前の空のような淡い色。その表面を無数の糸が走り、かすかな光が縦横に行き交っている。布の裾は床に触れず、見えない風に揺れていた。
中央に、裂け目がある。
上から下へ一筋。誰かが鋏を入れたような直線ではなく、引きちぎられた服のほつれに似ていた。隙間から白い霧が滲み、石床を薄く覆っている。
「縫い手を全員呼んで。避難経路も開けて」
セラが指示すると、衛兵が走り出した。私は裂け目の手前で立ち止まる。布の奥から、幾重もの囁きが聞こえた。言葉にならない声が重なり、波のように寄せては引く。
「これが王宮の暁布……」
「国の境界を守る布です」とセラは言った。「今は説明より、裂け目を広げないことが先」
彼女は道具箱を開け、長い針と淡い金色の糸を取り出した。私も手伝おうと膝をつく。
「何をすれば?」
「裂け目の両端を押さえて。引っ張りすぎないでください。糸が弱っています」
触れる前に、私は手を止めた。
「この布の願いは、誰のものですか。私が勝手に縫っても――」
セラは一瞬だけ私を見た。
「今は新しい願いを縫い込まない。残っている糸を仮につなぐだけです。奥へ針を入れないこと。少しでもおかしいと感じたらやめて」
承知して、私は端を支えた。薄いのに重い。濡れた外套を持つような感触が、指の骨まで伝わる。
セラの針が一度、二度と布を渡る。けれど三針目で糸がきしみ、裂け目の上端がさらに開いた。
「下がって!」
霧が吹き出した。私は反射的に息を止め、布を放す。石床を這った白さが、セラの足元へ広がる。
エリオットが私とセラの間に入った。
「殿下、近づかないでください」
「避難の指揮は衛兵長に頼みました。ここでできることがあるなら、私にもさせてください」
彼は手袋をした手で布の端を支えた。光の筋が、彼の指先の周りでかすかに揺れる。
その瞬間、裂け目の奥から声がした。
『リディア!』
幼い子どもの声だった。泣き出しそうな、必死な呼び声。私もセラも動きを止める。
「今の……」
エリオットの唇がわずかに開いた。彼は布を見つめたまま、ひどく静かな声で言う。
「私の声に、似ていましたね」
「聞き覚えがあるんですか」
「いいえ。あんなふうに呼んだ覚えは、ありません」
リディア。彼にとって大切な名前なのだろうか。尋ねようとしたとき、布がもう一度大きく震えた。
「話は後です」とセラが言う。「ミオさん、上の端を。殿下はそのまま、決して奥へ手を入れないで」
私は言われた場所に手を伸ばした。エリオットの支える側と縫い合わせるには、裂け目の幅が少し広い。
「端を寄せます。殿下、痛かったらすぐ言ってください」
「布を押さえているだけですよ」
「それでもです」
彼は私を見て、困ったように微笑んだ。
「わかりました。あなたも、何かあれば」
私はうなずき、ゆっくりと布を寄せた。セラの針が表面の糸だけを拾い、裂け目を橋のように渡る。強く結び切らず、次の縫い手が直せる余裕を残す。応急処置だ。元通りになったわけではない。
最後の一針を置いたとき、霧の流れが細くなった。
遅れてやってきた縫い手たちが、広間の周囲に補助の布を張る。衛兵が扉の外へ霧が漏れていないか確かめ、鐘がようやく止まった。
「ひとまず、これで」
セラが息を吐く。私も肩の力を抜いた。その途端、抱えていた紙が床に落ちた。ノアの描いた、腕輪と結び目の絵だ。
エリオットが拾い上げてくれる。子どもたちの小さな手と、その周りの白い霧を、彼はじっと見た。
「避難所で見たことを、セラさんに伝えるつもりでした」
「後で聞きます」とセラは答えた。「今夜のことも含めて、観察したことを全部」
エリオットが絵を私に返す。手袋越しの指先が、ほんのわずかに震えていた。
「殿下、やはり痛むんですか」
「少し驚いただけです」
彼はいつもの穏やかな声で言った。けれど、その目は閉じられた裂け目から離れない。
「リディアというのは、母の名です」
私は絵を抱き直した。
「呼んだ覚えがないのに、どうして私の声があそこから聞こえたのでしょうね」
答えを持つ人は、誰もいなかった。
縫い留めたばかりの布の向こうで、もう一度、何かが小さく軋んだ。