明日を縫う、忘却の花嫁

第10話 裂け目から呼ぶ声

 鐘の音は、廊下の突き当たりから聞こえた。 「暁布です」  セラの顔から血の気が引いた。私はノアの絵を抱えたまま、彼女の後を追う。曲がり角では、音を聞いて駆けつけたエリオットと鉢合わせた。 「何が起きたんですか」 「まだわかりません。ミオさん、無理に近づかないで」  そう言ったセラ自身の足は速い。私たちは石の階段を下り、衛兵が開けた重い扉をくぐった。  地下の広間に、巨大な布が垂れていた。  夜明け前の空のような淡い色。その表面を無数の糸が走り、かすかな光が縦横に行き交っている。布の裾は床に触れず、見えない風に揺れていた。  中央に、裂け目がある。  上から下へ一筋。誰かが鋏を入れたような直線ではなく、引きちぎられた服のほつれに似ていた。隙間から白い霧が滲み、石床を薄く覆っている。 「縫い手を全員呼んで。避難経路も開けて」  セラが指示すると、衛兵が走り出した。私は裂け目の手前で立ち止まる。布の奥から、幾重もの囁きが聞こえた。言葉にならない声が重なり、波のように寄せては引く。 「これが王宮の暁布……」 「国の境界を守る布です」とセラは言った。「今は説明より、裂け目を広げないことが先」  彼女は道具箱を開け、長い針と淡い金色の糸を取り出した。私も手伝おうと膝をつく。 「何をすれば?」 「裂け目の両端を押さえて。引っ張りすぎないでください。糸が弱っています」  触れる前に、私は手を止めた。 「この布の願いは、誰のものですか。私が勝手に縫っても――」  セラは一瞬だけ私を見た。 「今は新しい願いを縫い込まない。残っている糸を仮につなぐだけです。奥へ針を入れないこと。少しでもおかしいと感じたらやめて」  承知して、私は端を支えた。薄いのに重い。濡れた外套を持つような感触が、指の骨まで伝わる。  セラの針が一度、二度と布を渡る。けれど三針目で糸がきしみ、裂け目の上端がさらに開いた。 「下がって!」  霧が吹き出した。私は反射的に息を止め、布を放す。石床を這った白さが、セラの足元へ広がる。  エリオットが私とセラの間に入った。 「殿下、近づかないでください」 「避難の指揮は衛兵長に頼みました。ここでできることがあるなら、私にもさせてください」  彼は手袋をした手で布の端を支えた。光の筋が、彼の指先の周りでかすかに揺れる。  その瞬間、裂け目の奥から声がした。 『リディア!』  幼い子どもの声だった。泣き出しそうな、必死な呼び声。私もセラも動きを止める。 「今の……」  エリオットの唇がわずかに開いた。彼は布を見つめたまま、ひどく静かな声で言う。 「私の声に、似ていましたね」 「聞き覚えがあるんですか」 「いいえ。あんなふうに呼んだ覚えは、ありません」  リディア。彼にとって大切な名前なのだろうか。尋ねようとしたとき、布がもう一度大きく震えた。 「話は後です」とセラが言う。「ミオさん、上の端を。殿下はそのまま、決して奥へ手を入れないで」  私は言われた場所に手を伸ばした。エリオットの支える側と縫い合わせるには、裂け目の幅が少し広い。 「端を寄せます。殿下、痛かったらすぐ言ってください」 「布を押さえているだけですよ」 「それでもです」  彼は私を見て、困ったように微笑んだ。 「わかりました。あなたも、何かあれば」  私はうなずき、ゆっくりと布を寄せた。セラの針が表面の糸だけを拾い、裂け目を橋のように渡る。強く結び切らず、次の縫い手が直せる余裕を残す。応急処置だ。元通りになったわけではない。  最後の一針を置いたとき、霧の流れが細くなった。  遅れてやってきた縫い手たちが、広間の周囲に補助の布を張る。衛兵が扉の外へ霧が漏れていないか確かめ、鐘がようやく止まった。 「ひとまず、これで」  セラが息を吐く。私も肩の力を抜いた。その途端、抱えていた紙が床に落ちた。ノアの描いた、腕輪と結び目の絵だ。  エリオットが拾い上げてくれる。子どもたちの小さな手と、その周りの白い霧を、彼はじっと見た。 「避難所で見たことを、セラさんに伝えるつもりでした」 「後で聞きます」とセラは答えた。「今夜のことも含めて、観察したことを全部」  エリオットが絵を私に返す。手袋越しの指先が、ほんのわずかに震えていた。 「殿下、やはり痛むんですか」 「少し驚いただけです」  彼はいつもの穏やかな声で言った。けれど、その目は閉じられた裂け目から離れない。 「リディアというのは、母の名です」  私は絵を抱き直した。 「呼んだ覚えがないのに、どうして私の声があそこから聞こえたのでしょうね」  答えを持つ人は、誰もいなかった。  縫い留めたばかりの布の向こうで、もう一度、何かが小さく軋んだ。

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