縫い留めた暁布が、また小さく軋んだ。
「離れてください」
セラの声に、私は反射的に後ずさる。けれど裂け目から霧が吹き出すことはなく、補助の布が一度揺れただけだった。
「縫い目が引かれています。ここは私たちが見張りますから、殿下もミオさんも休んで」
エリオットは返事をしなかった。布を支えていた手が、まだ宙に残っている。手袋の指先は白い埃をかぶり、わずかに震えていた。
「殿下?」
「ええ。聞こえています」
微笑んだ顔はいつもどおりに見える。それがかえって心配で、私はノアの絵を片腕に抱え直した。
「部屋まで一緒に行きます。私も報告の途中でしたし」
「見張り役でしょうか」
「倒れそうな人を見逃さない役です」
「厳しい役をお引き受けになりましたね」
彼は軽口を返したが、一歩踏み出した途端、石の床に膝をついた。
「殿下!」
私は絵をセラに預け、彼の肩を支えた。顔色が悪い。手袋の上から手首に触れると、脈はある。けれど彼は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
「衛兵を。医師も呼んでください」
セラが扉へ指示を飛ばす。私はエリオットの手を取った。
「聞こえますか。無理に立たなくていいです」
手袋越しの指は冷たい。彼が薄く目を開き、何かを言おうとしたとき、私の指先に奇妙な感覚が走った。
糸に触れたときの、あの気配に似ている。
市場の子どもの上着からは、母親と朝食を食べたいという、温かな願いが伝わってきた。兵士の旗からは、帰りを待つ人のいる明日が見えた。
けれど今、触れた先には何もない。
真っ暗なのではない。明るい場所でもない。ただ、次に続くはずのものが、そこで途切れている。
「……明日が」
思わず漏らした私の声に、エリオットの瞳が揺れた。
私は慌てて手を離した。人の奥に勝手に踏み込んだような気がしたのだ。
「ごめんなさい。触れたら、何かが伝わってきて。見るつもりじゃなかったんです」
彼は離れた手を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「あなたが謝ることではありません」
衛兵が駆けつけ、彼に肩を貸す。立ち上がったエリオットは、今度は自分の足で歩こうとした。私も隣につき、地下広間を出る。
廊下に出たところで、医師が私たちを迎えた。小部屋に入り、エリオットは椅子に座って診察を受ける。セラは広間に残り、布の状態を確かめると言っていた。
医師は脈と瞳を調べ、温かい水を勧めた。
「今夜はお休みください。痛みや息苦しさが続くようなら、すぐにお知らせを」
「わかりました。ありがとう」
診察を終えた医師と衛兵が扉の外に下がると、部屋は急に静かになった。窓の向こうはまだ暗い。夜明けまでは、もう少しかかりそうだ。
私は卓上の水差しから、もう一杯だけ水を注いだ。
「これも見張り役の仕事ですか」
「はい。追加料金は取りません」
「それはありがたい」
彼が口をつけたのを見届けてから、私は尋ねた。
「さっき感じたこと、聞いてもいいですか。嫌なら答えなくて大丈夫です」
彼は杯を両手で包んだ。手袋を外すことはしない。
「殿下は、ご自分の明日を考えようとすると……何も浮かばないんですか」
問いを口にした途端、三度目に会った日のことを思い出した。明日の天気を尋ねた私に、彼が言葉を詰まらせたこと。
エリオットは窓の暗さを見た。
「明日の予定を聞けば、予定表を読むことはできます。天気の予報も、人に教えてもらえば答えられる」
「でも?」
「自分がそこにいるところを思い描こうとすると、うまくいかないのです」
彼は笑おうとした。けれど杯の水面だけが揺れた。
「昔からの病気のようなものです。疲れが出たのでしょう。大したことではありません」
「さっき、立てなくなりました」
「それは否定できませんね」
少し困ったような口調に、私もようやく息をつく。けれど、病気という説明が、あの空白のすべてを表しているとは思えなかった。彼自身にも、話したくないことがあるのかもしれない。
「私には、治せるとは言えません」
服の破れなら、ほつれの形を見て、どこから針を入れるか考えられる。でも人の明日は布ではない。さっき触れた感覚だけで、わかったつもりにはなりたくなかった。
「ただ、具合が悪いときに悪いって言ってもらえたら、隣で水くらいは注げます」
「見張り役の範囲が広がりましたね」
「追加料金を考えておきます」
今度の笑みは、ほんの少しだけ自然だった。
扉が控えめに叩かれ、セラが顔を出した。
「殿下、広間の布は落ち着いています。縫い手を交代で残しました」
「ありがとう。母の名が聞こえたことも、記録に残しておいてください」
セラは一瞬、息を止めたように見えた。
「……承知しました」
何か言いかけて、彼女は言葉を飲み込む。私はその横顔が気になったが、尋ねる前に、廊下から別の侍女が駆けてきた。
「セラ様、王妃様の遺品の整理について、至急ご相談が」
リディア。暁布の裂け目から呼ばれた名前が、胸の中にもう一度響く。
セラは私たちを見比べ、それから侍女に向き直った。
「わかりました。すぐに行きます」
彼女の指先は、まだ固く握られたままだった。