王妃の遺品が置かれた部屋は、朝の光の中でも静かだった。
夜通しの騒ぎのあと、医師に休むよう言われた私は、仮眠から覚めるとセラに呼ばれた。侍女たちだけでは布の傷みを見分けきれないので、整理を手伝ってほしいという。
「殿下は?」
「お部屋で休んでいらっしゃいます。先ほど、お水をもう一杯飲んだと報告がありました」
セラがわずかに口元を緩める。私が追加料金を考える前に、見張り役は引き継がれたらしい。
棚には箱が並び、衣装には薄布がかけられていた。私たちは侍女と一緒に、品名と傷みを紙に記していく。勝手に持ち出さず、修繕が必要なものも別に分けるだけだ。
「このリボン、結び目が固いですね」
「王妃様ご自身が結ばれたものです。ほどかず、そのまま箱へお願いします」
セラの声はいつもより柔らかかった。私は結び目を崩さないように包み、蓋を閉めた。
次に開けた平たい箱には、白い布が畳まれていた。端には青と淡い金の花が刺繍されている。花びらの一枚一枚が小さく、近づくと糸の艶が朝の光を返した。
「きれい……」
「お手を洗ってからなら、広げていただいて構いません」
侍女の許可を確かめてから、私は布を机に置いた。薄い生地には年月の黄ばみがあるが、目立つ破れはない。
ところが、花の一つに指を近づけたところで、違和感に気づいた。
花びらの糸が、隣の花びらへ素直に続いていない。表側だけ見れば同じ形なのに、裏では一本が遠回りして茎の下へ潜り、別の場所から戻っている。
「刺し直した跡でしょうか」
私は布の端をそっと持ち上げた。ほどくつもりはない。けれど針がどこを通ったか、確かめたくなるのは修繕屋の癖だった。
「少し不思議な針順ですね。ここから次の花びらに行くなら、もっと短く――」
「触らないで」
鋭い声に、私は手を止めた。
セラが箱の向こうに立っていた。さっきまで棚の帳面を見ていたはずなのに、いつの間にかこちらへ来ている。彼女の視線は私の手ではなく、花の裏側に釘付けだった。
「……失礼しました」
私は布を傷めないよう端を戻した。侍女も驚いた顔で、セラと刺繍を交互に見る。
「私が許可しました。何か問題がございましたか」
「あなたの責任ではありません」
セラは侍女にそう言い、ゆっくり息を吐いた。
「その布の整理は中止します。箱に戻して、私が預かります」
「汚してしまいましたか」
「いいえ。あなたは何もしていない」
そう答えながら、セラは布を畳む手を一度止めた。花を内側に隠すようにして、丁寧に箱へ収める。
昨夜、裂け目からリディアという名が聞こえたときも、彼女は何かを言いかけていた。知らないはずのない何かを、飲み込んだように。
「セラさんは、あの刺繍をご存じなんですか」
「王妃様の遺品ですから」
「そういう意味ではなくて」
彼女の指が蓋の上で止まる。問い詰めたいわけじゃない。けれど、あの花を見た瞬間の顔を、ただの驚きとして片づけることもできなかった。
「今は話せません」
短い答えだった。嘘だとは思わない。でも、それで安心できるほど十分でもない。
「わかりました。布にはもう触りません。でも、昨日の暁布と関係があるなら、殿下にも伝えたほうがいいんじゃないでしょうか」
「……必要なことは、私からお伝えします」
セラは箱を抱えた。侍女に残りの品の整理を頼み、扉へ向かう。私は追いかけず、その背中を見送った。
机には、箱の底から落ちたらしい小さな青い糸くずが残っていた。拾っても何かがわかるわけじゃない。ただ、あの遠回りした一針を思い出す。
急いで縫えば隠れるものがある。逆に、わざわざ遠回りしなければ残せないものもある。
「王妃様は、よく刺繍をなさったんですか」
侍女は頷いた。
「ええ。花の形を考えるのがお好きでした。でも、あの布を私が見たのは初めてです」
窓の外では、朝の鐘が鳴った。私は糸くずを紙の上に置き、落とし物として記録に添えた。
セラが話せない理由は、まだわからない。それでも、見なかったことにはできない。
閉じた箱の中で、花は何を待っているのだろう。