ノアが抱えてきた画板は、彼の肩幅より少し大きかった。
「祭りの絵?」
「その前。避難所の皆に頼まれて、描いてるんだ」
作業台に広げられた紙には、毛布を畳む人、鍋を覗く子ども、窓際で靴を直す老人がいた。どの顔も、こちらを向いて笑っているわけではない。それがかえって、あの日の忙しさを思い出させた。
「肖像画って、じっと座って描いてもらうものだと思ってた」
「じっとしてくれる人ばかりじゃないから。鍋の人なんて、三回も味見に戻った」
「大事な役目です」
私たちが笑っていると、エリオットが部屋に入ってきた。ノアは少し背筋を伸ばし、それでも絵を隠さなかった。
「避難所の人たちです。配る前に、名前が合ってるか確かめたくて」
絵の余白には、一人ずつ名前が書かれている。王子は目を細め、端から丁寧に読んだ。
「皆さんに見せる前に、描かれた方々には確認しましたか」
「うん。描かないでって言った人は入れてない。名前を載せるかどうかも聞いたよ」
「それなら安心です」
エリオットが一枚の紙を指した。小さな椅子に座り、誰かの袖口を繕っている女の人だ。脇には「マルタ」と書かれていた。
「この方は、どちらの避難所に?」
「北の集会所。昼は縫い物を手伝ってくれるんだ。本人にも、絵を配っていいって聞いた」
王子は頷いたが、眉間に浅い皺が寄った。
「北の名簿を見せてもらえますか」
やがて運ばれてきた名簿を三人で調べた。鍋を見ていた人も、靴を直していた老人も載っている。けれどマルタの名だけが見当たらなかった。
「書き間違いかもしれません」
そう言いながら、エリオットは最後の行まで指を滑らせた。別の綴りも、似た名前もない。
ノアが唇を噛む。
「おれ、絵を描き間違えたのかな」
「絵だけで決めなくていいよ。一緒に本人に聞きに行こう」
私が言うと、彼は画板を抱え直した。
北の集会所では、マルタが窓際で糸を巻いていた。ノアの絵を見るなり、彼女は自分の前髪を押さえる。
「もう少し整えておけばよかったわ」
「そのままがいいって、昨日言ったじゃないか」
「昨日の私と今日の私は違うの」
笑い声にほっとした後で、私は名簿のことを伝えた。マルタは糸巻きを止める。
「配給の列には並んでいます。札もありますよ」
差し出された札には、確かに彼女の名があった。隣にいた世話役も、毎朝マルタが洗濯を手伝っていると証言した。ただ、王宮へ提出する写しに名を書いたかと尋ねると、首を傾げた。
「書いたはずなんですが……何度も書き直したものですから」
単なる転記漏れかもしれない。霧のせいだと決めつけることもできない。けれど、名簿に載らなければ必要な支援から漏れるかもしれなかった。
エリオットは世話役に、本人の希望を確認してから名を追加し、元の記録と照合してほしいと頼んだ。マルタにも、名前と所在を王宮に伝えてよいか尋ねる。
「ええ。でも、絵は集会所に配るだけでお願いします」
「承知しました。絵を記録の代わりに持ち出したりはしません」
王子の返事に、彼女は糸巻きを机へ戻した。
帰り道、ノアは画板を抱えたまま小さく息を吐いた。
「見つかってよかった。でも、名簿にいない人がほかにもいたら?」
「調べましょう。本人や世話役に確かめながら」
エリオットは足を止め、私たちを見た。
「記録官に原本との照合を頼みます。私も同席する。ノア、君が見たことを話してもらえますか」
「話す。絵を渡すかどうかは、描かれた人に聞いてからでいい?」
「もちろんです」
その日の夕方、記録室で出迎えたレオンは、事情を聞くにつれて表情を硬くした。
「提出された名簿に不備があるなら、担当部署へ伝えてください。古い原本まで調べる必要はありません」
「一人だけの問題とは限らない」
エリオットの声は穏やかだったが、引かなかった。
「照合を命じます」
「……記録室の資料は、簡単に外へ出せません」
レオンはそう答え、名簿を閉じた。拒む理由を尋ねても、規則の話を繰り返すばかりだった。
結局、私たちは何も持たずに部屋を出た。廊下でノアが悔しそうに呟く。
「描いたのに、役に立たなかった」
「マルタさんの名前は、今日確かめられたよ」
私は画板の端に触れかけて、やめた。これはノアと、絵に描かれた人たちのものだ。
「それに、まだ終わってない」
彼はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
扉の向こうでは、レオンが机に残された一枚の紙を見つめていた。ノアが説明のために広げ、本人と世話役の許可を得て置いていった、マルタの肖像だ。
彼は戸口へ向かいかけ、廊下にもう誰もいないと知ると、絵をそっと裏返した。
白い紙の端に、鉛筆の薄い線が残っている。消そうとして消しきれなかった、もう一人分の椅子の輪郭だった。
レオンは絵を自分の書類の間に挟み、鍵のかかる棚を見た。
「……原本が残っていれば、ですが」
誰に聞かせるでもない声は、閉じた記録室に落ちた。