明日を縫う、忘却の花嫁

第16話 閉ざされた工房

 閉鎖された工房の扉は、思ったよりあっさり開いた。 「鍵が錆びているかと」 「管理人が手入れしていたそうです。使われなくなっても、建物は残りますから」  エリオットは先に中を確かめ、床板の丈夫な場所を指した。管理人の立ち会いと許可を得て、私たちは花の地図が指した工房に来ていた。  窓から差す光に、埃がゆっくり舞う。壁際には織機、棚には空の糸巻き。誰かがついさっき席を立ったような机の上だけが、不自然に片づいていた。 「ここの職人さんたちは、どこへ?」  管理人は首を振った。 「閉鎖の後はそれぞれ別の場所へ。名簿が残っていればいいんですが」  私は織機のそばにしゃがんだ。木枠には細い溝が幾重にも刻まれている。普通の布を織るための傷にしては、並びが奇妙だった。 「糸が戻ってくる道みたい」  一本が布へ向かい、もう一本が手元へ折り返す。溝の端には、針を固定する小さな金具がついていた。 「触らないほうがよさそうですね」  エリオットが言う。私は伸ばしかけた手を引っ込めた。 「今日は見学だけ、ですね」 「危険がわかるまでは。残念ですが、報酬のお茶も工房では出せません」 「埃の味がしそうですもんね」  笑ったものの、胸の奥は落ち着かなかった。織機の脇に、薄い帳面が挟まっている。管理人に確認して取り出すと、表紙に「採取台帳」とあった。  開いた頁には日付と名前、その横に短い言葉が並ぶ。 〈明朝、娘を迎えに行く〉 〈冬まで畑を守る〉  願いだ。けれど署名の欄は、どの頁にも見当たらない。代わりに「対象より抽出」「布へ固定」と事務的な文字が続いていた。 「本人に尋ねた記録がない……」  言い切るには、まだ早い。別の帳面に同意が書かれている可能性もある。それでも、指先が冷たくなった。  机の引き出しから、管理人が一枚の作業指示書を見つけた。そこには織機の金具と同じ図があり、布の持ち主が不在でも、残された衣服から願いを引き出す手順が記されていた。 「本人の確認は不要、とあります」  エリオットの声が低くなる。 「不要……」  私は指示書を見つめた。願いが布に残っていることと、それを誰かが使っていいことは違う。市場の子の上着を繕ったとき、私はその違いを考える余裕もなかった。 「この道具で縫った人たちは、どうなったんでしょう」 「わかりません。だから調べます」  王子は管理人に向き直り、台帳と指示書、道具を証拠として保全するよう求めた。持ち出す品目をその場で書き出し、管理人にも控えを渡す。王宮に運ぶだけでは、なかったことにされかねないから、と彼は言った。 「職人と、台帳に名前のある方々の所在を調べます。ご本人やご家族に話を聞くときは、記録の扱いも説明したうえで」  その約束を聞いて、私は帳面に並ぶ名前をもう一度見た。たった数文字では、その人が何を失ったのかも、失っていないのかもわからない。 「私も手伝います。縫い方なら、少しは読めるかもしれません」 「頼りにしています。ただし、一人で背負わないことも条件です」 「条件が増えましたね」 「殿下への追加料金として、温かいお茶を請求してください」  彼の冗談に、ようやく少し笑えた。  帰り際、窓辺に一筋、色の暗い糸を見つけた。埃のせいかと思ったけれど、近づくと、黒い色は糸の内側まで染みているように見えた。  旗に残っていた糸を思い出す。 「殿下、これも記録に」  触れずに場所を示すと、彼は頷き、慎重に係の人へ伝えた。黒い糸が何を意味するのか、私たちにはまだわからない。  閉じられる扉の向こうで、古い織機は黙ったままだった。

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