閉鎖された工房の扉は、思ったよりあっさり開いた。
「鍵が錆びているかと」
「管理人が手入れしていたそうです。使われなくなっても、建物は残りますから」
エリオットは先に中を確かめ、床板の丈夫な場所を指した。管理人の立ち会いと許可を得て、私たちは花の地図が指した工房に来ていた。
窓から差す光に、埃がゆっくり舞う。壁際には織機、棚には空の糸巻き。誰かがついさっき席を立ったような机の上だけが、不自然に片づいていた。
「ここの職人さんたちは、どこへ?」
管理人は首を振った。
「閉鎖の後はそれぞれ別の場所へ。名簿が残っていればいいんですが」
私は織機のそばにしゃがんだ。木枠には細い溝が幾重にも刻まれている。普通の布を織るための傷にしては、並びが奇妙だった。
「糸が戻ってくる道みたい」
一本が布へ向かい、もう一本が手元へ折り返す。溝の端には、針を固定する小さな金具がついていた。
「触らないほうがよさそうですね」
エリオットが言う。私は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「今日は見学だけ、ですね」
「危険がわかるまでは。残念ですが、報酬のお茶も工房では出せません」
「埃の味がしそうですもんね」
笑ったものの、胸の奥は落ち着かなかった。織機の脇に、薄い帳面が挟まっている。管理人に確認して取り出すと、表紙に「採取台帳」とあった。
開いた頁には日付と名前、その横に短い言葉が並ぶ。
〈明朝、娘を迎えに行く〉
〈冬まで畑を守る〉
願いだ。けれど署名の欄は、どの頁にも見当たらない。代わりに「対象より抽出」「布へ固定」と事務的な文字が続いていた。
「本人に尋ねた記録がない……」
言い切るには、まだ早い。別の帳面に同意が書かれている可能性もある。それでも、指先が冷たくなった。
机の引き出しから、管理人が一枚の作業指示書を見つけた。そこには織機の金具と同じ図があり、布の持ち主が不在でも、残された衣服から願いを引き出す手順が記されていた。
「本人の確認は不要、とあります」
エリオットの声が低くなる。
「不要……」
私は指示書を見つめた。願いが布に残っていることと、それを誰かが使っていいことは違う。市場の子の上着を繕ったとき、私はその違いを考える余裕もなかった。
「この道具で縫った人たちは、どうなったんでしょう」
「わかりません。だから調べます」
王子は管理人に向き直り、台帳と指示書、道具を証拠として保全するよう求めた。持ち出す品目をその場で書き出し、管理人にも控えを渡す。王宮に運ぶだけでは、なかったことにされかねないから、と彼は言った。
「職人と、台帳に名前のある方々の所在を調べます。ご本人やご家族に話を聞くときは、記録の扱いも説明したうえで」
その約束を聞いて、私は帳面に並ぶ名前をもう一度見た。たった数文字では、その人が何を失ったのかも、失っていないのかもわからない。
「私も手伝います。縫い方なら、少しは読めるかもしれません」
「頼りにしています。ただし、一人で背負わないことも条件です」
「条件が増えましたね」
「殿下への追加料金として、温かいお茶を請求してください」
彼の冗談に、ようやく少し笑えた。
帰り際、窓辺に一筋、色の暗い糸を見つけた。埃のせいかと思ったけれど、近づくと、黒い色は糸の内側まで染みているように見えた。
旗に残っていた糸を思い出す。
「殿下、これも記録に」
触れずに場所を示すと、彼は頷き、慎重に係の人へ伝えた。黒い糸が何を意味するのか、私たちにはまだわからない。
閉じられる扉の向こうで、古い織機は黙ったままだった。