明日を縫う、忘却の花嫁

第17話 返事を待たずに

 採取台帳にあった名前の一人は、工房からそう遠くない路地に住んでいた。  元織物職人のトマ。管理人に所在を教わり、エリオットが先に訪問の理由を説明すると、老人は戸口で渋い顔をした。 「昔のことは、たいして覚えちゃいないよ」 「話したくなければ、お断りください。台帳にお名前があり、体調を確かめたかったんです」  王子がそう言うと、トマはため息をついた。 「体調なら、針穴に糸を通せなくなったくらいだ。王子様が直してくれるのかい」 「それはミオさんの専門です」 「丸投げですね」  私たちが顔を見合わせると、老人の口元が少し緩んだ。そのとき、家の奥から若い女性が現れた。娘のリナだと紹介されたが、トマは一瞬、彼女の顔を不思議そうに見た。 「今日は工房の話はやめて。お父さん、朝から具合が悪いの」  リナの声には、慣れた心配が混じっていた。窓の外を見ると、路地の奥に白い霧が溜まっている。昼なのに、向かいの家の輪郭がぼやけていた。 「避難所へ行きましょう。馬車を呼びます」  エリオットが衛兵に指示した、その直後だった。  霧が戸口を越え、老人の足元を這った。リナが父の腕を引こうとする。だが、指が袖をすり抜けたように見えて、彼女は息を呑んだ。 「お父さん?」  トマの姿が、薄い布を透かしたみたいに揺れる。私は以前、霧に消えかけた子の上着を繕ったことを思い出した。あのときは縫い目が、周りの人たちに子の名を呼び戻した。 「ミオさん、待って。まず霧から離れて」  王子の声が届く。けれどリナの手が空を掴むのを見た途端、私は鞄から針と糸を取り出していた。 「上着のほつれを留めます!」  トマの袖口には、古い裂け目があった。彼は私の方を見たが、返事は聞こえない。霧がその唇まで覆っていた。  私は袖を押さえ、急いで針を通した。  一針、二針。  ほつれの奥から、かすかな温かさが伝わる。誰かを迎えに行きたい――そんな願いに触れた気がした。私はそれを引き留めるように糸を引いた。  次の瞬間、白い糸が黒く染まった。 「え……」  指先から冷たさが腕を駆け上がる。頭の中で、何か言葉がひとつ滑り落ちた。何だったか思い出そうとするほど、黒い色が縫い目に広がる。 「ミオさん、手を離して!」  エリオットに肩を引かれ、私は針を取り落とした。王子と衛兵がトマの体を両側から支え、リナが道を開ける。戸外に駆けつけた人たちも手を貸し、私たちは霧の薄い広場へ退いた。  トマの姿は、まだ揺らいでいた。けれど手は、今度は衛兵の腕にかかっている。 「お父さん、聞こえる?」  リナが呼びかけると、老人はゆっくりと目を開けた。彼女を見て、眉を寄せる。 「……あんたは」  リナの顔から血の気が引いた。老人が自分の名さえ覚えていないのか、今はまだわからない。確かめるより先に、彼女は父の手を握った。 「大丈夫。ここにいるから」  私は黒くなった縫い目を見つめた。工房の指示書にあった、本人の確認は不要、という文字が胸を刺す。  私は袖を繕うと叫んだ。けれど、返事を待たなかった。彼が何を望み、その願いを私が縫っていいのか、一度も尋ねていない。 「私、確認しませんでした」  声が震える。 「助けたくて……でも、トマさんの許可を聞かないまま」  エリオットは私を責めず、黒糸にも触れなかった。 「セラを呼びます。何が起きたのか、わかる人に確かめましょう」  リナは父の手を握ったまま、私を見上げた。その目に浮かぶ問いに、私はまだ答えられなかった。  黒い糸は、トマの袖に固く食い込んでいた。

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