明日を縫う、忘却の花嫁

第18話 切っても消えない傷

 セラが広場へ駆けつけたとき、トマさんの袖の黒は、ほどけ目の周囲に小さな輪を作っていた。 「触らないで。糸だけではなく、願いも絡んでいる」  彼女は膝をつき、トマさんとリナさんを見た。息を整えてから、できるだけ静かな声で尋ねる。 「黒い糸を切れば、ここに集まる霧を退けられるかもしれません。ただ、失われたものが戻るとは限らない。袖に触れてもいいですか」  トマさんはしばらく自分の袖を見つめ、それからうなずいた。 「やってくれ。こいつを、このままにはできんだろう」  リナさんは父の隣で手を握り直した。私は一歩離れ、セラが小さな鋏を取り出すのを見守る。今度は返事を待った。それだけで、胸の痛みが消えるわけではなかった。  ぱちん。  黒い輪が切れると、糸の端がくるりと縮んだ。トマさんの肩にまとわりついていた霧が、風に押されるように薄くなる。広場の向こうの石畳が、ようやくはっきり見えた。 「お父さん、私の声、聞こえる?」 「ああ」  リナさんの目に光が戻る。けれど彼は、その次に困ったように言った。 「すまんが、あんたの名前を教えてくれないか」  彼女の指が止まった。 「リナよ。あなたの娘の」 「娘……」  トマさんは彼女と自分の手を交互に見た。振り払うことはしなかったが、その顔に浮かんだのは、懐かしさではなく戸惑いだった。 「小さい頃、工房まで迎えに来てくれたでしょう。雨の日は、私の靴が濡れないようにって」  リナさんは言いかけて、唇を噛んだ。トマさんは目を閉じ、何かを探すように眉を寄せた。長い沈黙のあと、首を横に振る。 「悪い。わからない」  さっき袖の奥で感じた、誰かを迎えに行きたいという温かさ。それが誰に向けられたものだったのか、私には言い切れない。わかったつもりで口にする資格もなかった。 「切ったのに……」  思わず漏れた私の声に、セラが鋏を閉じる。 「黒い糸を切るのは、これ以上絡むのを止めるため。切れば傷まで消えるわけじゃない」  彼女の声は硬かった。その先を知っているようにも聞こえたけれど、今は問い詰められなかった。  私はリナさんに向き直った。 「私が、トマさんの返事を待たずに縫いました。助けたいと思っても、確認するべきでした」  謝ろうとしたとき、リナさんが父の肩に掛けた毛布を引き上げた。 「今は、寒くない場所へ連れて行きたいの」 「……はい」  それは許しでも、拒絶でもなかった。私は荷物を持ち、衛兵が呼んだ馬車まで道を空けた。リナさんは父の歩調に合わせ、何度も立ち止まった。 「私も同行します」  エリオットが御者に避難所の場所を告げる。王子は私を見て、何か言いかけ、それから馬車の扉に手を添えた。 「ミオさん。話は、二人が落ち着いてから聞いてもらいましょう。あなたのしたことも、隠さずに」 「はい。逃げません」  馬車が走り出す。私はセラから切り取った黒糸を受け取り、空の糸巻きにそっと巻いた。指先には、縫った瞬間に滑り落ちた言葉の空白が残っている。何を忘れたのか、まだ思い出せない。  袖の裂け目は、鋏を入れた分だけ広がっていた。布なら、改めて繕えるかもしれない。けれど人の中にできた隙間を、私が勝手に埋めることはできない。  馬車の中で、リナさんが父の名を呼ぶ。  トマさんは、少し遅れて振り向いた。  その間にあるものを見ないふりはしない。私は黒糸の巻かれた糸巻きを握り、二人の後を追った。

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