セラが広場へ駆けつけたとき、トマさんの袖の黒は、ほどけ目の周囲に小さな輪を作っていた。
「触らないで。糸だけではなく、願いも絡んでいる」
彼女は膝をつき、トマさんとリナさんを見た。息を整えてから、できるだけ静かな声で尋ねる。
「黒い糸を切れば、ここに集まる霧を退けられるかもしれません。ただ、失われたものが戻るとは限らない。袖に触れてもいいですか」
トマさんはしばらく自分の袖を見つめ、それからうなずいた。
「やってくれ。こいつを、このままにはできんだろう」
リナさんは父の隣で手を握り直した。私は一歩離れ、セラが小さな鋏を取り出すのを見守る。今度は返事を待った。それだけで、胸の痛みが消えるわけではなかった。
ぱちん。
黒い輪が切れると、糸の端がくるりと縮んだ。トマさんの肩にまとわりついていた霧が、風に押されるように薄くなる。広場の向こうの石畳が、ようやくはっきり見えた。
「お父さん、私の声、聞こえる?」
「ああ」
リナさんの目に光が戻る。けれど彼は、その次に困ったように言った。
「すまんが、あんたの名前を教えてくれないか」
彼女の指が止まった。
「リナよ。あなたの娘の」
「娘……」
トマさんは彼女と自分の手を交互に見た。振り払うことはしなかったが、その顔に浮かんだのは、懐かしさではなく戸惑いだった。
「小さい頃、工房まで迎えに来てくれたでしょう。雨の日は、私の靴が濡れないようにって」
リナさんは言いかけて、唇を噛んだ。トマさんは目を閉じ、何かを探すように眉を寄せた。長い沈黙のあと、首を横に振る。
「悪い。わからない」
さっき袖の奥で感じた、誰かを迎えに行きたいという温かさ。それが誰に向けられたものだったのか、私には言い切れない。わかったつもりで口にする資格もなかった。
「切ったのに……」
思わず漏れた私の声に、セラが鋏を閉じる。
「黒い糸を切るのは、これ以上絡むのを止めるため。切れば傷まで消えるわけじゃない」
彼女の声は硬かった。その先を知っているようにも聞こえたけれど、今は問い詰められなかった。
私はリナさんに向き直った。
「私が、トマさんの返事を待たずに縫いました。助けたいと思っても、確認するべきでした」
謝ろうとしたとき、リナさんが父の肩に掛けた毛布を引き上げた。
「今は、寒くない場所へ連れて行きたいの」
「……はい」
それは許しでも、拒絶でもなかった。私は荷物を持ち、衛兵が呼んだ馬車まで道を空けた。リナさんは父の歩調に合わせ、何度も立ち止まった。
「私も同行します」
エリオットが御者に避難所の場所を告げる。王子は私を見て、何か言いかけ、それから馬車の扉に手を添えた。
「ミオさん。話は、二人が落ち着いてから聞いてもらいましょう。あなたのしたことも、隠さずに」
「はい。逃げません」
馬車が走り出す。私はセラから切り取った黒糸を受け取り、空の糸巻きにそっと巻いた。指先には、縫った瞬間に滑り落ちた言葉の空白が残っている。何を忘れたのか、まだ思い出せない。
袖の裂け目は、鋏を入れた分だけ広がっていた。布なら、改めて繕えるかもしれない。けれど人の中にできた隙間を、私が勝手に埋めることはできない。
馬車の中で、リナさんが父の名を呼ぶ。
トマさんは、少し遅れて振り向いた。
その間にあるものを見ないふりはしない。私は黒糸の巻かれた糸巻きを握り、二人の後を追った。