扉を叩く音が、三回。
「王宮の者です。
中にいる方、話を聞かせてもらえますか」
怒鳴り声ではなかった。
ノアは私の前に立ち、配達鞄を握りしめる。
「裏口から逃げよう」
「でも、市場は封鎖されてるんでしょう?」
このまま隠れれば、ノアまで疑われる。
私は膝の震えを押さえ、扉に近づいた。
「私が出ます。
ノアは、ただ助けてくれただけです」
扉を開けると、さっき馬を降りた黒髪の青年が立っていた。
紺色の外套には銀の留め具。
後ろに控えた兵が一歩進むのを、彼は手で制した。
「エリオット・リュミエルです。
驚かせてすみません。
あなたが、ルカの上着を繕った人ですね」
「……はい。
でも、記憶を盗もうとしたわけじゃありません」
「それを確かめに来ました。
まずは、彼を助けてくれてありがとう」
王子に頭を下げられ、私は返事を忘れた。
ノアも隣で目を丸くしている。
「殿下、その者を拘束しなくては」
兵の言葉に、エリオットは静かに首を振った。
「事情も聞かずに? それでは、僕たちが彼女の答えを盗むことになる」
少しだけ、息がしやすくなった。
ただ、信じてもらえたとは限らない。
「ルカに、ちゃんと話したいんです。
上着を直す許可はもらいました。
でも、願いを縫うことになるなんて知らなくて」
エリオットは頷いた。
「ルカとお母さんには兵が付き添っています。
今は落ち着ける場所で休んでもらいましょう。
後で本人たちがよければ、話せるようにします」
勝手に会わせるとも、会わせないとも決めない。
その言い方に、私はようやく彼の目を見た。
「霧についても伺いたい。
市場で何が起きたのか、あなたの見たことを教えてくれませんか。
王宮に来ていただければ、調べる手助けができます」
「逮捕じゃないんですか?」
「協力のお願いです。
断る自由もあります。
ただ、ここでは人目が多い。
安全な場所までお連れすることは許してください」
ノアが私を見る。
私は左袖の赤い糸をなぞった。
帰る方法を知りたい。
そのためにも、この国の霧を知る必要がある。
「行きます。
ノアはどうなりますか」
「配達を続けてもらって構いません。
もし話を聞く必要があれば、改めてお願いに行きます」
ノアはほっとした顔で鞄を肩に掛けた。
「ミオ、また市場に来て。
パン屋のおじさんに、手袋を見てもらった話もしなきゃ」
「うん。
勝手に直したりはしてないって、ちゃんと伝えてね」
「そこ、大事だね」
初めて笑ったノアに手を振り、私はエリオットと路地を出た。
彼は兵に封鎖を解くよう指示し、露店の人たちに一人ずつ詫びて回る。
王子の仕事は、思ったより腰が低いらしい。
市場の外には、王宮へ向かう馬車が待っていた。
見上げた空は青く、遠い塔の周りだけに白い霧がかかっている。
「明日は晴れるでしょうか」
故郷では、誰とでも交わせる何気ない言葉だった。
けれどエリオットは、馬車の扉にかけた手を止めた。
「明日……」
その先を探すように、彼は空を見た。
長い沈黙のあと、困ったように微笑む。
「すみません。
僕には、わからない」
天気予報がない国なのかもしれない。
それだけのことなのに、彼の声はひどく遠く聞こえた。
「じゃあ、明日になったら確かめましょう」
私が言うと、彼は目を見開き、それから小さく頷いた。
馬車が動き出す。
窓の向こうで市場が遠ざかり、白い塔が近づいてくる。
私の知らない国の王宮へ。
そして、明日を答えられなかった王子の隣へ。