明日を縫う、忘却の花嫁

第3話 明日の天気を知らない王子

扉を叩く音が、三回。 「王宮の者です。 中にいる方、話を聞かせてもらえますか」 怒鳴り声ではなかった。 ノアは私の前に立ち、配達鞄を握りしめる。 「裏口から逃げよう」 「でも、市場は封鎖されてるんでしょう?」 このまま隠れれば、ノアまで疑われる。 私は膝の震えを押さえ、扉に近づいた。 「私が出ます。 ノアは、ただ助けてくれただけです」 扉を開けると、さっき馬を降りた黒髪の青年が立っていた。 紺色の外套には銀の留め具。 後ろに控えた兵が一歩進むのを、彼は手で制した。 「エリオット・リュミエルです。 驚かせてすみません。 あなたが、ルカの上着を繕った人ですね」 「……はい。 でも、記憶を盗もうとしたわけじゃありません」 「それを確かめに来ました。 まずは、彼を助けてくれてありがとう」 王子に頭を下げられ、私は返事を忘れた。 ノアも隣で目を丸くしている。 「殿下、その者を拘束しなくては」 兵の言葉に、エリオットは静かに首を振った。 「事情も聞かずに? それでは、僕たちが彼女の答えを盗むことになる」 少しだけ、息がしやすくなった。 ただ、信じてもらえたとは限らない。 「ルカに、ちゃんと話したいんです。 上着を直す許可はもらいました。 でも、願いを縫うことになるなんて知らなくて」 エリオットは頷いた。 「ルカとお母さんには兵が付き添っています。 今は落ち着ける場所で休んでもらいましょう。 後で本人たちがよければ、話せるようにします」 勝手に会わせるとも、会わせないとも決めない。 その言い方に、私はようやく彼の目を見た。 「霧についても伺いたい。 市場で何が起きたのか、あなたの見たことを教えてくれませんか。 王宮に来ていただければ、調べる手助けができます」 「逮捕じゃないんですか?」 「協力のお願いです。 断る自由もあります。 ただ、ここでは人目が多い。 安全な場所までお連れすることは許してください」 ノアが私を見る。 私は左袖の赤い糸をなぞった。 帰る方法を知りたい。 そのためにも、この国の霧を知る必要がある。 「行きます。 ノアはどうなりますか」 「配達を続けてもらって構いません。 もし話を聞く必要があれば、改めてお願いに行きます」 ノアはほっとした顔で鞄を肩に掛けた。 「ミオ、また市場に来て。 パン屋のおじさんに、手袋を見てもらった話もしなきゃ」 「うん。 勝手に直したりはしてないって、ちゃんと伝えてね」 「そこ、大事だね」 初めて笑ったノアに手を振り、私はエリオットと路地を出た。 彼は兵に封鎖を解くよう指示し、露店の人たちに一人ずつ詫びて回る。 王子の仕事は、思ったより腰が低いらしい。 市場の外には、王宮へ向かう馬車が待っていた。 見上げた空は青く、遠い塔の周りだけに白い霧がかかっている。 「明日は晴れるでしょうか」 故郷では、誰とでも交わせる何気ない言葉だった。 けれどエリオットは、馬車の扉にかけた手を止めた。 「明日……」 その先を探すように、彼は空を見た。 長い沈黙のあと、困ったように微笑む。 「すみません。 僕には、わからない」 天気予報がない国なのかもしれない。 それだけのことなのに、彼の声はひどく遠く聞こえた。 「じゃあ、明日になったら確かめましょう」 私が言うと、彼は目を見開き、それから小さく頷いた。 馬車が動き出す。 窓の向こうで市場が遠ざかり、白い塔が近づいてくる。 私の知らない国の王宮へ。 そして、明日を答えられなかった王子の隣へ。

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