明日を縫う、忘却の花嫁

第21話 裂け目を支える手

 布の奥は、音が遠かった。  外側で動く針のかすかな擦れさえ、何枚もの布に吸い込まれていく。私は垂れ下がる暁布をかき分け、足元の糸に躓かないよう進んだ。 「エリオットさん」  返事はない。代わりに、押し殺した息が聞こえた。  裂け目の裏側で、彼は片膝をついていた。両手を布に押し当て、肩を強張らせている。掌の下から淡い光が滲み、引き裂かれていた布の端が、少しずつ近づいていった。  けれどそのたびに、彼の指が震えた。 「やめてください」  私の声に、彼は顔を上げた。額に汗が浮いている。 「入ってはいけません。ここは――」  言葉が途切れた。彼の喉から、短い悲鳴が漏れる。  私は駆け寄りかけ、足を止めた。何が起きているかも知らず触れれば、また誰かの大切なものを傷つけるかもしれない。トマさんと娘さんの顔が浮かぶ。 「何をすればいいですか。触っても大丈夫ですか」  彼は苦しげに息を継いだ。 「布には……触れないで。あなたを巻き込む」 「あなたは巻き込まれていないとでも?」  言い返した声が思ったより震えて、私は唇を噛んだ。  彼の手の下で、裂け目がまた狭くなる。外からセラの声がした。 「殿下、もう少しだけ! 端を留めます!」  エリオットは答えず、布に手を押しつけた。指先から伸びた光が縫い目へ流れ込む。彼が耐えるたび、外側の糸が一本ずつ落ち着いていく。  その仕組みはわからない。でも、痛みだけは見間違えようがなかった。 「もう少しって、どのくらいですか!」  私が叫ぶと、布の向こうで針音が止まった。 「ミオ、そこから離れて!」 「離れたら、この人が痛くなくなるんですか」  返事はなかった。布越しに息を呑む気配がする。  私は王子の隣に膝をついた。触れずにいるには、近すぎる距離だった。 「私、ここにいます。邪魔になるなら言ってください」 「十分、困っています」 「それは知っています」  彼はほんの少し笑おうとして、失敗した。  光がひときわ強く脈打った。彼の身体が前へ傾く。 「支えてもいいですか」  彼は一瞬、目を閉じた。それから小さくうなずく。  私は布に触れないよう、彼の肩を支えた。服越しにもわかるほど、身体は冷えていた。王子は私の腕を掴み、荒い呼吸を整えようとする。 「あなたに見せるつもりは、なかった」 「見なければ、なかったことになるんですか」 「少なくとも、あなたを心配させずに済む」 「遅いです」  それだけ言うと、彼の指がわずかに緩んだ。  外側から、セラの鋭い声が飛ぶ。 「最後の一本、通します。殿下、手を離す準備を!」  針が布を貫く。光が糸を伝い、裂け目の端から端へ走った。エリオットの肩が跳ね、私は彼を抱える腕に力を込めた。 「今です!」  彼が掌を離すと、布はかすかに揺れた。ほどけるのでは、と身構えたが、新しい縫い目はそのまま残った。  王子は私にもたれ、しばらく言葉を発せなかった。裂け目を閉じたのに、痛みまで消えたようには見えない。  セラが布を押し分けて入ってくる。私たちを見て顔をこわばらせたが、叱る代わりに水筒を差し出した。 「殿下、少しずつ飲んでください」  彼が水を受け取る手を、私はそっと放した。 「外はどうなりましたか」 「裂け目は塞がった。ひとまず、霧も押し戻せています」  セラは布を見上げ、それから王子を見た。安堵と罪悪感が一緒になったような顔だった。 「申し訳ありません。私たちの縫い目だけでは、奥の裂け目を保てなくて」 「あなたのせいではありません」と彼は言った。  私は二人を見比べた。謝る側も、庇う側も、この光景を前から知っていたのだ。 「前にも、こうしたんですか」  セラは答えなかった。エリオットは水筒の蓋を閉める。 「何度か」 「病気だと言いましたよね。明日を想像できないことも」  彼の指が止まった。以前、触れた手の向こうに感じた空白を、私は忘れていない。 「これと関係があるんですか」 「ミオ」とセラが言った。「今は休ませてあげて」 「休んでほしいです。でも、次に裂けたら、また同じことをするんでしょう?」  王子は立ち上がろうとし、ふらついた。私は咄嗟に手を伸ばしたが、彼は自分で布の柱に寄りかかる。 「あなたが怒るのはもっともです」 「怒っています。あなたが痛いのに、平気なふりをしたから。それに、私が知らないうちに、あなたを支える役目だなんて言葉で片づけられていたから」  彼は私をまっすぐ見た。逃げるような笑みは、もうなかった。 「私が望んで、ここへ来ました」 「それなら、なおさら知りたい。どうしてあなたが触れると裂け目が塞がるんですか。何を代わりに払っているんですか」  沈黙の向こうで、外の工房のざわめきが戻ってくる。  エリオットは手袋をはめ直した。白い指先を一本ずつ収める、いつもの仕草が、今はひどく慎重に見えた。 「……隠し続けることは、もうできませんね」  彼は閉じた暁布に目を向けた。 「お話しします。私と、この結界のことを」

コメント

コメントを投稿するにはログインが必要です

ログイン

まだコメントがありません

レビューを投稿するにはログインが必要です

ログイン