布の奥は、音が遠かった。
外側で動く針のかすかな擦れさえ、何枚もの布に吸い込まれていく。私は垂れ下がる暁布をかき分け、足元の糸に躓かないよう進んだ。
「エリオットさん」
返事はない。代わりに、押し殺した息が聞こえた。
裂け目の裏側で、彼は片膝をついていた。両手を布に押し当て、肩を強張らせている。掌の下から淡い光が滲み、引き裂かれていた布の端が、少しずつ近づいていった。
けれどそのたびに、彼の指が震えた。
「やめてください」
私の声に、彼は顔を上げた。額に汗が浮いている。
「入ってはいけません。ここは――」
言葉が途切れた。彼の喉から、短い悲鳴が漏れる。
私は駆け寄りかけ、足を止めた。何が起きているかも知らず触れれば、また誰かの大切なものを傷つけるかもしれない。トマさんと娘さんの顔が浮かぶ。
「何をすればいいですか。触っても大丈夫ですか」
彼は苦しげに息を継いだ。
「布には……触れないで。あなたを巻き込む」
「あなたは巻き込まれていないとでも?」
言い返した声が思ったより震えて、私は唇を噛んだ。
彼の手の下で、裂け目がまた狭くなる。外からセラの声がした。
「殿下、もう少しだけ! 端を留めます!」
エリオットは答えず、布に手を押しつけた。指先から伸びた光が縫い目へ流れ込む。彼が耐えるたび、外側の糸が一本ずつ落ち着いていく。
その仕組みはわからない。でも、痛みだけは見間違えようがなかった。
「もう少しって、どのくらいですか!」
私が叫ぶと、布の向こうで針音が止まった。
「ミオ、そこから離れて!」
「離れたら、この人が痛くなくなるんですか」
返事はなかった。布越しに息を呑む気配がする。
私は王子の隣に膝をついた。触れずにいるには、近すぎる距離だった。
「私、ここにいます。邪魔になるなら言ってください」
「十分、困っています」
「それは知っています」
彼はほんの少し笑おうとして、失敗した。
光がひときわ強く脈打った。彼の身体が前へ傾く。
「支えてもいいですか」
彼は一瞬、目を閉じた。それから小さくうなずく。
私は布に触れないよう、彼の肩を支えた。服越しにもわかるほど、身体は冷えていた。王子は私の腕を掴み、荒い呼吸を整えようとする。
「あなたに見せるつもりは、なかった」
「見なければ、なかったことになるんですか」
「少なくとも、あなたを心配させずに済む」
「遅いです」
それだけ言うと、彼の指がわずかに緩んだ。
外側から、セラの鋭い声が飛ぶ。
「最後の一本、通します。殿下、手を離す準備を!」
針が布を貫く。光が糸を伝い、裂け目の端から端へ走った。エリオットの肩が跳ね、私は彼を抱える腕に力を込めた。
「今です!」
彼が掌を離すと、布はかすかに揺れた。ほどけるのでは、と身構えたが、新しい縫い目はそのまま残った。
王子は私にもたれ、しばらく言葉を発せなかった。裂け目を閉じたのに、痛みまで消えたようには見えない。
セラが布を押し分けて入ってくる。私たちを見て顔をこわばらせたが、叱る代わりに水筒を差し出した。
「殿下、少しずつ飲んでください」
彼が水を受け取る手を、私はそっと放した。
「外はどうなりましたか」
「裂け目は塞がった。ひとまず、霧も押し戻せています」
セラは布を見上げ、それから王子を見た。安堵と罪悪感が一緒になったような顔だった。
「申し訳ありません。私たちの縫い目だけでは、奥の裂け目を保てなくて」
「あなたのせいではありません」と彼は言った。
私は二人を見比べた。謝る側も、庇う側も、この光景を前から知っていたのだ。
「前にも、こうしたんですか」
セラは答えなかった。エリオットは水筒の蓋を閉める。
「何度か」
「病気だと言いましたよね。明日を想像できないことも」
彼の指が止まった。以前、触れた手の向こうに感じた空白を、私は忘れていない。
「これと関係があるんですか」
「ミオ」とセラが言った。「今は休ませてあげて」
「休んでほしいです。でも、次に裂けたら、また同じことをするんでしょう?」
王子は立ち上がろうとし、ふらついた。私は咄嗟に手を伸ばしたが、彼は自分で布の柱に寄りかかる。
「あなたが怒るのはもっともです」
「怒っています。あなたが痛いのに、平気なふりをしたから。それに、私が知らないうちに、あなたを支える役目だなんて言葉で片づけられていたから」
彼は私をまっすぐ見た。逃げるような笑みは、もうなかった。
「私が望んで、ここへ来ました」
「それなら、なおさら知りたい。どうしてあなたが触れると裂け目が塞がるんですか。何を代わりに払っているんですか」
沈黙の向こうで、外の工房のざわめきが戻ってくる。
エリオットは手袋をはめ直した。白い指先を一本ずつ収める、いつもの仕草が、今はひどく慎重に見えた。
「……隠し続けることは、もうできませんね」
彼は閉じた暁布に目を向けた。
「お話しします。私と、この結界のことを」