閉じた暁布は、何事もなかったように揺れていた。
エリオットはその前に腰を下ろした。立って話すには、まだ顔色が悪い。セラが持ってきた椅子を私にも勧めたけれど、私はその背に手を置いたままだった。
「この国の大結界は、王家の暁布で保たれています」
「それは聞きました」
「布だけではありません。代々、王族の一人が、その力の代価になる」
代価。布の上ではなく、私の胸に針が刺さったようだった。
「その一人が、私です」
セラが水筒の蓋を握り直す。彼女は知っていたのだ。だから王子が布へ入るのを止められなかったのか。それで納得できるわけではなかった。
「代価って、何を払うんですか」
「あり得た明日、と呼ばれています。幼いころに儀式を受けて以来、自分の未来を思い描けない。明日の天気を尋ねられた時も、答えを選ぼうとすると、そこで考えが止まってしまった」
市場を出た日のことを思い出す。あの沈黙は、質問が変だったからではなかった。
「でも、お仕事の予定は立てていますよね」
「他の人が決めた予定を覚え、必要な準備をすることはできます。ただ、その先にいる自分を思い浮かべようとすると、何も見えない」
彼は手袋をした掌を見つめた。
「裂け目に触れた時の痛みは、そのつながりのせいだと聞かされています。私が布を支え、縫い手が留める。先ほどもそうでした」
「布が裂けたら、毎回あんなふうに?」
「いつも同じではありません。ですが、結界が傷むほど負担は増えます」
セラが静かに言った。
「だから、私たちは補修を急いでいたの。殿下に触れていただく前に済ませられるなら、それが一番いい」
「できなかった時は、王子が痛みに耐える」
彼女はうなずいた。私は怒鳴りたかった。けれど、さっき布越しに聞いた必死な声も覚えている。セラが平気で針を動かしていたわけではない。
「もっと早く話すべきだった」と、彼女は言った。「あなたを巻き込みたくなかった。でも、知らないまま働かせたのは私たちよ」
私は椅子に座った。膝が、思っていたより頼りなかった。
「病気だって言ったのは、私を遠ざけるためですか」
「それもあります。説明すれば、あなたは何とかしようとするでしょう」
「すると思います」
「でしょうね」
ほんの少しだけ彼が笑い、すぐに消えた。
「ですが、もう一つあります。この結界が完全に切れれば、私は死にます」
工房の外で誰かが道具を片づける音がした。普通の午後の音だった。さっきまで私たちを隔てていた布が、いまは部屋中を塞いでいる気がした。
「……切らなければ、大丈夫なんですか」
「少なくとも、今まで私は生きてきました。けれど、いつまで保つかはわかりません」
「代わりの人を探す、とか」
口にしてから、私は首を振った。別の誰かを痛い場所に押し込むだけだ。
エリオットは責めなかった。
「王家では代々、そうしてきたのかもしれません。私が知るのは、自分が代価であることと、結界が切れれば命も失うということだけです。儀式で何をされたのか、詳しくは覚えていない」
「誰かに尋ねたことは?」
「あります。安全のために知らない方がいい、と」
安全。その言葉の中に、彼の知る権利まで包んで隠した人がいる。
「セラは?」
「私も詳しい手順は知らない。教えられたのは補修の方法と、殿下に負荷をかけすぎないための目安だけ」
セラは唇を結び、続けた。
「知らないことを理由に、これ以上黙っていたくはない。調べられる記録があるか、探してみる」
エリオットが顔を上げた。
「無理はしないでください。記録に近づけば、あなたの立場が危うくなるかもしれない」
「殿下がそれを言いますか」
私とセラの声が重なった。二人で顔を見合わせ、思わず息を漏らす。王子は困ったように眉を下げた。
「今日は、分が悪いですね」
「今日だけじゃないといいんですけど」
笑ったあとで、私は布を見た。彼の命が結ばれたものを、何も知らずに切るわけにはいかない。縫えば済むとも言えない。
「話してくれて、ありがとうございます。でも、私、まだ怒っています」
「承知しています」
「あなたが痛いことにも、知らなかったことにも。それから、結界が壊れたら死ぬなんて、そんな仕組みにも」
エリオットは返事を探すように視線を落とした。私は彼の手に触れなかった。支えるかどうかも、これからは本人に尋ねたい。
代わりに、自分の左袖を握る。赤い糸の小さな凹凸が指に当たった。
「修繕の仕事では、傷んだところをそのまま引っ張ると、布ごと裂けることがあります。だから別の布を当てたり、力のかかる場所を変えたりするんです」
「暁布が服と同じとは限らない」とセラが言う。
「はい。わからないことばかりです」
それでも、たった一人の明日を代価にするしかないと、今ここで決めたくなかった。
私は王子の目を見た。
「別の方法を探したいです。あなたが痛みに耐えることを、当たり前にしない方法を」
彼の表情が、わずかに硬くなった。
「ミオさん。それは――」
その先を、彼はまだ言わなかった。