明日を縫う、忘却の花嫁

第22話 明日を預けた布

 閉じた暁布は、何事もなかったように揺れていた。  エリオットはその前に腰を下ろした。立って話すには、まだ顔色が悪い。セラが持ってきた椅子を私にも勧めたけれど、私はその背に手を置いたままだった。 「この国の大結界は、王家の暁布で保たれています」 「それは聞きました」 「布だけではありません。代々、王族の一人が、その力の代価になる」  代価。布の上ではなく、私の胸に針が刺さったようだった。 「その一人が、私です」  セラが水筒の蓋を握り直す。彼女は知っていたのだ。だから王子が布へ入るのを止められなかったのか。それで納得できるわけではなかった。 「代価って、何を払うんですか」 「あり得た明日、と呼ばれています。幼いころに儀式を受けて以来、自分の未来を思い描けない。明日の天気を尋ねられた時も、答えを選ぼうとすると、そこで考えが止まってしまった」  市場を出た日のことを思い出す。あの沈黙は、質問が変だったからではなかった。 「でも、お仕事の予定は立てていますよね」 「他の人が決めた予定を覚え、必要な準備をすることはできます。ただ、その先にいる自分を思い浮かべようとすると、何も見えない」  彼は手袋をした掌を見つめた。 「裂け目に触れた時の痛みは、そのつながりのせいだと聞かされています。私が布を支え、縫い手が留める。先ほどもそうでした」 「布が裂けたら、毎回あんなふうに?」 「いつも同じではありません。ですが、結界が傷むほど負担は増えます」  セラが静かに言った。 「だから、私たちは補修を急いでいたの。殿下に触れていただく前に済ませられるなら、それが一番いい」 「できなかった時は、王子が痛みに耐える」  彼女はうなずいた。私は怒鳴りたかった。けれど、さっき布越しに聞いた必死な声も覚えている。セラが平気で針を動かしていたわけではない。 「もっと早く話すべきだった」と、彼女は言った。「あなたを巻き込みたくなかった。でも、知らないまま働かせたのは私たちよ」  私は椅子に座った。膝が、思っていたより頼りなかった。 「病気だって言ったのは、私を遠ざけるためですか」 「それもあります。説明すれば、あなたは何とかしようとするでしょう」 「すると思います」 「でしょうね」  ほんの少しだけ彼が笑い、すぐに消えた。 「ですが、もう一つあります。この結界が完全に切れれば、私は死にます」  工房の外で誰かが道具を片づける音がした。普通の午後の音だった。さっきまで私たちを隔てていた布が、いまは部屋中を塞いでいる気がした。 「……切らなければ、大丈夫なんですか」 「少なくとも、今まで私は生きてきました。けれど、いつまで保つかはわかりません」 「代わりの人を探す、とか」  口にしてから、私は首を振った。別の誰かを痛い場所に押し込むだけだ。  エリオットは責めなかった。 「王家では代々、そうしてきたのかもしれません。私が知るのは、自分が代価であることと、結界が切れれば命も失うということだけです。儀式で何をされたのか、詳しくは覚えていない」 「誰かに尋ねたことは?」 「あります。安全のために知らない方がいい、と」  安全。その言葉の中に、彼の知る権利まで包んで隠した人がいる。 「セラは?」 「私も詳しい手順は知らない。教えられたのは補修の方法と、殿下に負荷をかけすぎないための目安だけ」  セラは唇を結び、続けた。 「知らないことを理由に、これ以上黙っていたくはない。調べられる記録があるか、探してみる」  エリオットが顔を上げた。 「無理はしないでください。記録に近づけば、あなたの立場が危うくなるかもしれない」 「殿下がそれを言いますか」  私とセラの声が重なった。二人で顔を見合わせ、思わず息を漏らす。王子は困ったように眉を下げた。 「今日は、分が悪いですね」 「今日だけじゃないといいんですけど」  笑ったあとで、私は布を見た。彼の命が結ばれたものを、何も知らずに切るわけにはいかない。縫えば済むとも言えない。 「話してくれて、ありがとうございます。でも、私、まだ怒っています」 「承知しています」 「あなたが痛いことにも、知らなかったことにも。それから、結界が壊れたら死ぬなんて、そんな仕組みにも」  エリオットは返事を探すように視線を落とした。私は彼の手に触れなかった。支えるかどうかも、これからは本人に尋ねたい。  代わりに、自分の左袖を握る。赤い糸の小さな凹凸が指に当たった。 「修繕の仕事では、傷んだところをそのまま引っ張ると、布ごと裂けることがあります。だから別の布を当てたり、力のかかる場所を変えたりするんです」 「暁布が服と同じとは限らない」とセラが言う。 「はい。わからないことばかりです」  それでも、たった一人の明日を代価にするしかないと、今ここで決めたくなかった。  私は王子の目を見た。 「別の方法を探したいです。あなたが痛みに耐えることを、当たり前にしない方法を」  彼の表情が、わずかに硬くなった。 「ミオさん。それは――」  その先を、彼はまだ言わなかった。

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