明日を縫う、忘却の花嫁

第23話 探すことを諦めない

 「それは、探さなくていい」  エリオットの声は穏やかだった。だからこそ、聞き違えたかと思った。 「よくありません」 「王家の結界は長いあいだ国を守ってきました。仕組みを変えようとして、霧が広がればどうなるか」 「だから、いきなり切ったりしません。調べるんです」 「調べた先に、安全な方法があるとは限らない」  セラが二人の間に水筒を置いた。倒れそうな議論を、金属の底で支えるみたいに。 「まず、お二人とも水を飲んで。ミオ、あなたは布の向こうへ走っていったきりでしょう」  言われて初めて喉の渇きに気づいた。水を飲んでいる間、王子は椅子から動かなかった。休んでいるのに、逃げ道を探しているような目をしていた。 「私も記録を探すと言ったわ」とセラが続ける。「ただし、殿下のおっしゃる危険は本当よ。結界の結び目を知らずに触れれば、何が起こるかわからない」 「はい。だから、今ある布をいじらずにできることから」  私は作業台に残った端切れを二枚取り上げた。片方に小さな裂け目がある。暁布ではない、ただの麻布だ。 「ここを引っ張ると」  裂け目の両側をつまむと、傷は少し広がった。 「力を逃がす場所がなくて、弱いところに集まります。別の布を当てて、周りに縫い止めれば」 「力を分けられる、と」  エリオットは続きを言ってから、首を振った。 「布なら、でしょう。あなた自身が言ったように、暁布が同じとは限りません」 「その通りです。これは答えじゃなくて、調べるための例えです」  針を借りて、私は裂け目の裏に端切れを重ねた。粗い仮縫いを何本か通して、王子に布を差し出す。 「引っ張ってみてください」 「私が?」 「王子様の力加減でも試したいので」 「便利な称号ですね」  彼は手袋の指で布をつまんだ。さっきより広い範囲が引かれ、裂け目はすぐには開かなかった。けれど一箇所の縫い目がぷつりと切れる。 「あ」 「完璧ではないようです」 「はい。縫い方も、当てる布も考え直しです」  私は切れた糸を抜いた。失敗した端切れを眺めながら、避難所の子どもたちの腕輪を思い出す。小さな結び目がいくつも並び、その周りだけ霧が薄かった。あれも調べる価値はあるかもしれない。けれど、まだ何も証明していない。 「一人が全部を支える以外の方法があるか、探したいんです」  王子は端切れを台に置いた。 「ありません、とは言い切れません。だから危険なのです」 「可能性があるのに?」 「可能性があるからです」  彼はしばらく指先を見つめた。手袋の白さが、工房の窓からの光に浮いている。 「あなたは一度、他人の記憶を傷つけたことを悔やんだ。あの時も、助けたいと思ったから急いだのでしょう」  職人と娘の顔が浮かんだ。切った黒糸は消えても、奪ってしまった記憶は戻らなかった。 「忘れていません」 「なら、なおさらです。私のために危険な道を探し、何も見つからなかったら。あるいは、誰かを傷つけたら。あなたは自分を責める」 「それは、私が決めることです」 「私が、見たくないのです」  思わず、言葉を失った。  王子は眉を寄せ、言い直すように息を吐いた。 「期待させたくありません。私に何かできると信じて、あなたが代償を払う姿を」  彼が怖がっているのは、自分が助からないことだけではない。私が傷つくこともなのだ。そうわかっても、勝手に道を閉ざされるのは悔しかった。 「私も、あなたが痛みに耐える姿を見たくありません」 「私は慣れています」 「慣れたら平気になるんですか」  彼は答えなかった。  沈黙の中、セラが切れた仮縫いの糸を拾う。 「記録を探すのは、私の仕事でもあるわ。殿下の許可を待たずに調べられる範囲から始める」 「セラ」 「ミオに全部を背負わせるつもりはありません。危険な実験もしない。わからないことを、わからないまま放っておけなくなっただけです」  王子は何か言いかけ、やめた。それから私を見た。 「協力はできません。調査に必要な権限も、今は渡せない」  はっきりした拒絶に、胸が痛んだ。けれど、彼は私の針を取り上げたわけではない。 「わかりました。無理に手伝ってとは言いません」 「諦めるとは言わないんですね」 「言えません。私の仕事なので」  布も、人の気持ちも、引っ張れば裂けることがある。だからといって、傷んだまま置いておくしかないわけじゃない。  エリオットは疲れたように微笑んだ。 「本当に、困った縫い手です」 「追加料金をいただきますよ」  かすかに笑いが返った。けれど彼が部屋を出る時、その足取りは重かった。  扉が閉まると、セラは仮縫いの切れた箇所を指で押さえた。 「王家の儀式に関する台帳が、どこかに残っているはずよ。私も見たことはないけれど」 「一緒に探してもいいですか」 「危険が見えたら、立ち止まる。それが条件」 「約束します」  窓の向こうで夕鐘が鳴った。私は端切れを畳み、切れた糸も捨てずに包んだ。失敗した場所を、次に確かめるために。  翌日、工房へ届いた王子の手袋は、掌の縫い目が裂けていた。

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