王子の手袋は、掌の縫い目が大きく裂けていた。
「これは修繕ではなく、新調した方が早いかもしれません」
工房の窓辺で私が言うと、届けに来た侍従は困った顔をした。
「殿下は、この手袋でなければと」
白い革は柔らかく、指先はよく手に馴染んでいる。長く使った物なら、手放したくない気持ちはわかる。私は修繕を引き受け、侍従に一つ頼んだ。
「寸法を確かめたいので、殿下に来ていただけますか。縫い合わせるだけだと、また同じ場所が裂けそうで」
しばらくして現れたエリオットは、もう片方の手袋だけをはめていた。
「手袋一つで呼び出されるとは」
「追加料金はいただきません。その代わり、手をお借りします」
「昨日は請求すると言っていたのに」
「お得意様割引です」
彼は少しだけ笑い、差し出した椅子に腰を下ろした。昨日の話がなかったことになったわけではない。代わりの方法を探すことに、彼はまだ協力できないと言ったままだ。
私は裂け目の縁を揃えた。
「手を入れてもらえますか。痛ければすぐに教えてください」
エリオットは素手を革に滑り込ませたが、指を動かした途端、掌の裂け目がさらに開いた。
「あ」
薄い革の向こうに、白い線が見えた。
掌の内側をぐるりと囲む、細い輪。古い傷のようだったが、あまりに整った形に、私は針を持つ手を止めた。
「痛みますか」
「普段は気になりません」
彼は裂けた部分を押さえようとした。けれど、私が見たことには気づいている。
「傷について、尋ねてもいいですか」
彼は少し迷ってから手袋を外した。白い輪は確かに肌に刻まれていた。切り傷にしては円が滑らかで、掌を握ると、輪の一部が皺の間に沈む。
「いつできたものかは覚えていません。子どもの頃からあったと聞いています」
「結界と関係があると思いますか」
「わかりません。医師に尋ねても、古傷だとしか」
わからない。その言葉を、私は大事にしたかった。見た目だけで原因を決めることはできないし、調べたいからと彼の手に勝手に触れることもできない。
「診てもらうなら、セラさんにも見せていただけますか。無理なら、断ってください」
王子は白い輪を見つめた。
「あなたは、私が断っても調べるのでしょう」
「別の手がかりを探します。殿下の手を勝手に使ったりはしません」
しばらくして彼は頷いた。
「セラには見せましょう。ただし、この傷をどうにかしようとはしないでください」
「はい。見るだけです」
奥の棚で糸を整理していたセラを呼ぶと、彼女は二人の顔を見比べて近づいた。エリオットが事情を話し、掌を開く。
その瞬間、セラの顔から血の気が引いた。
「……その輪を、いつから」
「覚えていません。何か知っているのですか」
セラは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「似た図を見たことがあります。でも、同じものだと断言はできません」
「どこで?」
「昔の儀式を扱った資料の、写しです。詳しい説明は伏せられていました」
昨日、彼女が言った台帳のことを思い出す。王家の儀式に関する記録。二人で探す約束をしたばかりだった。
「その資料は残っていますか」
「私の手元にはないわ。原本が台帳と一緒に保管されているかもしれない。場所も含めて調べます」
セラは王子に向き直った。
「傷に触れてもよろしいですか、とは聞きません。何かわかるまでは、見たことだけを記録させてください」
「構いません。ただし、私の名を伏せられるところでは伏せてください」
「承知しました」
セラは紙に輪の形を描き、見た範囲と、わからない点を分けて書き込んだ。原因も用途も、まだ空欄だ。彼女の指は震えていたが、線は丁寧だった。
私は手袋の裂け目に視線を戻す。
「直す間、代わりの手袋はありますか」
「あります。ですが、あなたが直した方が丈夫でしょうね」
「それは期待ですか?」
「仕事の腕に対する、妥当な評価です」
「では、ありがたく」
掌に当て布を入れ、傷に縫い代が擦れないよう位置を調整する。本人の手から離れたただの革に、私は慎重に針を通した。手の傷にも、結界にも、針を入れない。
縫い終えた手袋を返すと、エリオットは指を曲げ、握って、開いた。
「具合は?」
「悪くありません。私が裂いてしまった箇所を、あなたが塞いだわけですね」
「今度は私が請求しても?」
「割引はどうなりました」
二人で笑った。昨日の拒絶は消えていない。それでも、今日の手の具合を尋ねることはできる。
王子が帰ったあと、セラは描き終えた紙を折り畳んだ。
「儀式の台帳を探すわ。見つかる保証はないけれど」
「私も手伝います」
「ありがとう。でも、立ち入りを禁じられた場所もある。まず、どこまで調べられるか確かめましょう」
彼女は紙を胸元にしまい、戸口で振り返った。
「ミオ。あの傷のこと、殿下が望まない相手には話さないで」
「もちろんです」
掌の白い輪が、何を意味するのかはまだ知らない。けれど、あれを見たセラの表情だけは、見間違えようがなかった。