明日を縫う、忘却の花嫁

第24話 掌の白い輪

 王子の手袋は、掌の縫い目が大きく裂けていた。 「これは修繕ではなく、新調した方が早いかもしれません」  工房の窓辺で私が言うと、届けに来た侍従は困った顔をした。 「殿下は、この手袋でなければと」  白い革は柔らかく、指先はよく手に馴染んでいる。長く使った物なら、手放したくない気持ちはわかる。私は修繕を引き受け、侍従に一つ頼んだ。 「寸法を確かめたいので、殿下に来ていただけますか。縫い合わせるだけだと、また同じ場所が裂けそうで」  しばらくして現れたエリオットは、もう片方の手袋だけをはめていた。 「手袋一つで呼び出されるとは」 「追加料金はいただきません。その代わり、手をお借りします」 「昨日は請求すると言っていたのに」 「お得意様割引です」  彼は少しだけ笑い、差し出した椅子に腰を下ろした。昨日の話がなかったことになったわけではない。代わりの方法を探すことに、彼はまだ協力できないと言ったままだ。  私は裂け目の縁を揃えた。 「手を入れてもらえますか。痛ければすぐに教えてください」  エリオットは素手を革に滑り込ませたが、指を動かした途端、掌の裂け目がさらに開いた。 「あ」  薄い革の向こうに、白い線が見えた。  掌の内側をぐるりと囲む、細い輪。古い傷のようだったが、あまりに整った形に、私は針を持つ手を止めた。 「痛みますか」 「普段は気になりません」  彼は裂けた部分を押さえようとした。けれど、私が見たことには気づいている。 「傷について、尋ねてもいいですか」  彼は少し迷ってから手袋を外した。白い輪は確かに肌に刻まれていた。切り傷にしては円が滑らかで、掌を握ると、輪の一部が皺の間に沈む。 「いつできたものかは覚えていません。子どもの頃からあったと聞いています」 「結界と関係があると思いますか」 「わかりません。医師に尋ねても、古傷だとしか」  わからない。その言葉を、私は大事にしたかった。見た目だけで原因を決めることはできないし、調べたいからと彼の手に勝手に触れることもできない。 「診てもらうなら、セラさんにも見せていただけますか。無理なら、断ってください」  王子は白い輪を見つめた。 「あなたは、私が断っても調べるのでしょう」 「別の手がかりを探します。殿下の手を勝手に使ったりはしません」  しばらくして彼は頷いた。 「セラには見せましょう。ただし、この傷をどうにかしようとはしないでください」 「はい。見るだけです」  奥の棚で糸を整理していたセラを呼ぶと、彼女は二人の顔を見比べて近づいた。エリオットが事情を話し、掌を開く。  その瞬間、セラの顔から血の気が引いた。 「……その輪を、いつから」 「覚えていません。何か知っているのですか」  セラは手を伸ばしかけ、途中で止めた。 「似た図を見たことがあります。でも、同じものだと断言はできません」 「どこで?」 「昔の儀式を扱った資料の、写しです。詳しい説明は伏せられていました」  昨日、彼女が言った台帳のことを思い出す。王家の儀式に関する記録。二人で探す約束をしたばかりだった。 「その資料は残っていますか」 「私の手元にはないわ。原本が台帳と一緒に保管されているかもしれない。場所も含めて調べます」  セラは王子に向き直った。 「傷に触れてもよろしいですか、とは聞きません。何かわかるまでは、見たことだけを記録させてください」 「構いません。ただし、私の名を伏せられるところでは伏せてください」 「承知しました」  セラは紙に輪の形を描き、見た範囲と、わからない点を分けて書き込んだ。原因も用途も、まだ空欄だ。彼女の指は震えていたが、線は丁寧だった。  私は手袋の裂け目に視線を戻す。 「直す間、代わりの手袋はありますか」 「あります。ですが、あなたが直した方が丈夫でしょうね」 「それは期待ですか?」 「仕事の腕に対する、妥当な評価です」 「では、ありがたく」  掌に当て布を入れ、傷に縫い代が擦れないよう位置を調整する。本人の手から離れたただの革に、私は慎重に針を通した。手の傷にも、結界にも、針を入れない。  縫い終えた手袋を返すと、エリオットは指を曲げ、握って、開いた。 「具合は?」 「悪くありません。私が裂いてしまった箇所を、あなたが塞いだわけですね」 「今度は私が請求しても?」 「割引はどうなりました」  二人で笑った。昨日の拒絶は消えていない。それでも、今日の手の具合を尋ねることはできる。  王子が帰ったあと、セラは描き終えた紙を折り畳んだ。 「儀式の台帳を探すわ。見つかる保証はないけれど」 「私も手伝います」 「ありがとう。でも、立ち入りを禁じられた場所もある。まず、どこまで調べられるか確かめましょう」  彼女は紙を胸元にしまい、戸口で振り返った。 「ミオ。あの傷のこと、殿下が望まない相手には話さないで」 「もちろんです」  掌の白い輪が、何を意味するのかはまだ知らない。けれど、あれを見たセラの表情だけは、見間違えようがなかった。

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