明日を縫う、忘却の花嫁

第25話 秘密にしない道

 ノアが工房へ来たのは、セラが古い台帳の所在を確かめに出かけた午後だった。 「配達です。あと、頼みがあります」  包みを置いた彼は、いつもの軽口を言わず、抱えていた画板を机に広げた。家々の並ぶ街角。窓辺には植木鉢があり、石畳の端には小さな水路が走っている。 「母さんが住んでた街だって、聞いた場所です」  ノアの母は霧の被害に遭い、彼はその顔を覚えていない。絵に描かれた窓の一つが、鉛筆の線だけで残されていた。 「そこが母さんの家?」 「たぶん。でも、たぶんのまま描きたくなくて。現地を見に行こうと思ってます」  彼は画板の端を指で押さえた。 「ミオさんたちが、そっちの街を調べるって聞きました。俺も連れていってください」  セラの妹が暮らす、霧に侵された街。王宮から届いた布の状態を調べるため、訪問の許可を取っているところだった。ノアが知っていたのは、私が避難所で調査先を話したからだ。 「危ないかもしれないよ」 「知ってます。だから一人で行くより、一緒がいい」  正論に詰まると、ノアが少し笑った。 「配達の仕事は休みをもらいます。荷物運びも道案内もできます」 「画板より大事な荷物が増えたら?」 「画板は背負えます」  そこへ戻ってきたセラが、戸口から言った。 「頼もしいわね。でも霧の深い場所へは入らないこと。危険があれば、私たち全員で引き返す」  ノアは真剣な顔で頷いた。 「それでいいです」  セラは私の隣に立ち、画板を見つめた。街の名を聞いた時、彼女の表情がわずかに曇る。 「妹に、あなたたちが訪ねることを伝えておくわ。会うかどうかは、あの子が決める」 「妹さんが?」とノアが尋ねる。 「ええ。あの街で暮らしているの」  それ以上、セラは言わなかった。私は昨夜の白い輪と、彼女が胸元にしまった紙を思い出したが、ノアには話さない。王子が望まない相手に傷のことを伝えないと約束している。  代わりに、私は机へ地図を広げた。 「調べるなら、王宮だけの秘密にはしたくない」  ノアもセラも私を見る。 「街の人たちが使っている布のことなら、結果は街の人たちにも伝えたい。わかったことだけじゃなくて、わからないことも」  セラは地図の上で指を止めた。 「王宮がすべての資料を公開するとは限らないわ。私にも、話せる範囲に制約がある」 「うん。殿下の個人的なことまで勝手に話すつもりはありません。でも、住民に関わる調査まで秘密にするなら、私は協力できない」  言葉にすると、喉が少し乾いた。協力を拒まれても仕方がないと思った。  セラはすぐには答えなかった。やがて地図の街道をなぞる。 「住民に関わる調査の目的と結果を、住民に伝えるよう求めましょう。制約が出たら隠さず、何を伝えられないのかも相談する。それでどう?」 「はい。それなら、一緒に進めたいです」  ノアが画板に紙を挟んだ。 「じゃあ俺も、見たものを描く。ただし、人の顔は描いていいか聞いてからにします」 「似顔絵の注文、殺到するかもしれないね」 「そのときはミオさんの修繕と交換で」 「一枚につき靴下一足?」 「穴の数によります」  笑いながら、私は旅に持っていく針箱を開けた。ノアは空いた余白に道を描き足し、危険な場所を示す印をセラに尋ねている。  その夕方、エリオットにも同行の話を伝えた。彼はノアの画板を見てから、私に視線を戻した。 「調査の結果を住民に伝える、と」 「はい。秘密にしないことが、私の条件です。殿下の傷については約束どおり話しません」 「区別してくれて、ありがとうございます」  彼は手袋の掌を一度握った。修繕した革は、今日は裂けない。 「住民に関わる情報を、王宮の都合だけで伏せるべきではありません。私からも説明を求めましょう。ただ、私の権限で必ず公開できるとは言えない」 「できないことも含めて、教えてください」 「ええ。その約束ならできます」  王子はノアに向き直った。 「あなたの絵は、これまで記録にない人の存在を示してくれました。今回も力を貸してください」 「はい。でも母さんの家を探す時間も、ちゃんともらいますからね」 「もちろんです。私が迷ったときは道案内もお願いします」 「王子様も迷うんですか?」 「宮殿の庭で二度ほど」 「それは内緒にしておきます」  ノアの返事に、私たちは笑った。秘密にしないと決めたばかりなのに、王子の迷子は例外らしい。  翌朝、三人分の荷物にセラの鞄が加わった。彼女は街へ出す手紙を握り、封を確かめている。 「妹さんへの手紙ですか」 「ええ。会えるかどうかは、まだわからないけれど」  ノアは画板を背負い直した。母の顔を描くためではなく、母が暮らした場所を、自分の目で見に行くために。  私たちはそれぞれ違う理由を抱えて、霧の街へ向かう。街の人たちが、私たちを迎えてくれるかどうかも知らないまま。

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