ノアが工房へ来たのは、セラが古い台帳の所在を確かめに出かけた午後だった。
「配達です。あと、頼みがあります」
包みを置いた彼は、いつもの軽口を言わず、抱えていた画板を机に広げた。家々の並ぶ街角。窓辺には植木鉢があり、石畳の端には小さな水路が走っている。
「母さんが住んでた街だって、聞いた場所です」
ノアの母は霧の被害に遭い、彼はその顔を覚えていない。絵に描かれた窓の一つが、鉛筆の線だけで残されていた。
「そこが母さんの家?」
「たぶん。でも、たぶんのまま描きたくなくて。現地を見に行こうと思ってます」
彼は画板の端を指で押さえた。
「ミオさんたちが、そっちの街を調べるって聞きました。俺も連れていってください」
セラの妹が暮らす、霧に侵された街。王宮から届いた布の状態を調べるため、訪問の許可を取っているところだった。ノアが知っていたのは、私が避難所で調査先を話したからだ。
「危ないかもしれないよ」
「知ってます。だから一人で行くより、一緒がいい」
正論に詰まると、ノアが少し笑った。
「配達の仕事は休みをもらいます。荷物運びも道案内もできます」
「画板より大事な荷物が増えたら?」
「画板は背負えます」
そこへ戻ってきたセラが、戸口から言った。
「頼もしいわね。でも霧の深い場所へは入らないこと。危険があれば、私たち全員で引き返す」
ノアは真剣な顔で頷いた。
「それでいいです」
セラは私の隣に立ち、画板を見つめた。街の名を聞いた時、彼女の表情がわずかに曇る。
「妹に、あなたたちが訪ねることを伝えておくわ。会うかどうかは、あの子が決める」
「妹さんが?」とノアが尋ねる。
「ええ。あの街で暮らしているの」
それ以上、セラは言わなかった。私は昨夜の白い輪と、彼女が胸元にしまった紙を思い出したが、ノアには話さない。王子が望まない相手に傷のことを伝えないと約束している。
代わりに、私は机へ地図を広げた。
「調べるなら、王宮だけの秘密にはしたくない」
ノアもセラも私を見る。
「街の人たちが使っている布のことなら、結果は街の人たちにも伝えたい。わかったことだけじゃなくて、わからないことも」
セラは地図の上で指を止めた。
「王宮がすべての資料を公開するとは限らないわ。私にも、話せる範囲に制約がある」
「うん。殿下の個人的なことまで勝手に話すつもりはありません。でも、住民に関わる調査まで秘密にするなら、私は協力できない」
言葉にすると、喉が少し乾いた。協力を拒まれても仕方がないと思った。
セラはすぐには答えなかった。やがて地図の街道をなぞる。
「住民に関わる調査の目的と結果を、住民に伝えるよう求めましょう。制約が出たら隠さず、何を伝えられないのかも相談する。それでどう?」
「はい。それなら、一緒に進めたいです」
ノアが画板に紙を挟んだ。
「じゃあ俺も、見たものを描く。ただし、人の顔は描いていいか聞いてからにします」
「似顔絵の注文、殺到するかもしれないね」
「そのときはミオさんの修繕と交換で」
「一枚につき靴下一足?」
「穴の数によります」
笑いながら、私は旅に持っていく針箱を開けた。ノアは空いた余白に道を描き足し、危険な場所を示す印をセラに尋ねている。
その夕方、エリオットにも同行の話を伝えた。彼はノアの画板を見てから、私に視線を戻した。
「調査の結果を住民に伝える、と」
「はい。秘密にしないことが、私の条件です。殿下の傷については約束どおり話しません」
「区別してくれて、ありがとうございます」
彼は手袋の掌を一度握った。修繕した革は、今日は裂けない。
「住民に関わる情報を、王宮の都合だけで伏せるべきではありません。私からも説明を求めましょう。ただ、私の権限で必ず公開できるとは言えない」
「できないことも含めて、教えてください」
「ええ。その約束ならできます」
王子はノアに向き直った。
「あなたの絵は、これまで記録にない人の存在を示してくれました。今回も力を貸してください」
「はい。でも母さんの家を探す時間も、ちゃんともらいますからね」
「もちろんです。私が迷ったときは道案内もお願いします」
「王子様も迷うんですか?」
「宮殿の庭で二度ほど」
「それは内緒にしておきます」
ノアの返事に、私たちは笑った。秘密にしないと決めたばかりなのに、王子の迷子は例外らしい。
翌朝、三人分の荷物にセラの鞄が加わった。彼女は街へ出す手紙を握り、封を確かめている。
「妹さんへの手紙ですか」
「ええ。会えるかどうかは、まだわからないけれど」
ノアは画板を背負い直した。母の顔を描くためではなく、母が暮らした場所を、自分の目で見に行くために。
私たちはそれぞれ違う理由を抱えて、霧の街へ向かう。街の人たちが、私たちを迎えてくれるかどうかも知らないまま。