明日を縫う、忘却の花嫁

第26話 霧の街の結び目

 街道の先で、霧が低い塀のように横たわっていた。 「地図には、こんな壁は描いてないですね」  画板を背負ったノアが立ち止まる。白い向こうには屋根が見えるのに、近づくほど輪郭が曖昧になった。  セラは胸元の手紙を確かめた。妹に会えるかどうかは、まだわからない。返事を待たずに訪ねていいのか、彼女は道中、何度も迷っていた。 「霧の薄い道を選びましょう。無理はしないで」  エリオットが言うと、セラは小さく頷いた。王子の手袋はきちんと嵌まっている。その内側の傷を思い出し、私は針箱の紐を握り直した。  街の入口には、布を巻いた棒が何本も立っていた。棒から棒へ細い紐が渡され、所々に色の違う端切れが結ばれている。 「洗濯物にしては、ずいぶん細いね」 「風が吹いたら、どこかに飛んでいきそうです」  ノアが言った途端、端切れがひらりと揺れた。向こうから鈴の音がする。続けて、人の声が聞こえた。 「そこ、足元に段差があります!」  霧の中から現れたのは、籠を抱えた少女だった。肩までの髪を後ろで結び、杖代わりの棒を手にしている。彼女は私たちを見ると、目を丸くした。 「姉さん?」 「アンナ」  セラの声がかすれる。少女は籠を石段に置き、姉の顔をじっと見た。 「手紙、今朝届いた。来るなら、もっと早く知らせてよ」 「ごめんなさい。急に決まって」 「それ、いつも言うね」  アンナは怒っているようだった。けれど次の瞬間、セラの外套に手を伸ばし、濡れた裾をつまむ。 「こっちは水たまり。靴のまま入ったら、家の床が泥だらけになるから」 「心配してくれているの?」 「床の心配」  セラが困ったように笑う。私とノアは顔を見合わせたが、笑い声は飲み込んだ。  アンナは私たちに向き直った。セラが一人ずつ紹介し、王子の名を聞いたところで、彼女は少しだけ眉を上げる。 「王宮の布を調べに来たんですね」 「はい」とエリオットが答えた。「住民の方々のお話を伺いたい。お許しがなければ、家にも布にも触れません」 「許すかどうかは、それぞれに聞いてください。私がみんなの分まで決めるわけじゃないから」  はっきりした声だった。エリオットは礼を言い、頭を下げた。アンナは少し驚いた顔をしてから、棒を持ち上げる。 「その前に、道を教えます。紐から手を離さないで」  紐は家々の軒先へ続いていた。端切れには結び目があり、二つ並んだ場所や、三つ連なった場所がある。 「結び目一つで曲がり角、二つで水場。三つは人がいる家。鈴は誰かが通る合図です」  アンナが自分の手元の布を引くと、少し先の鈴が鳴った。やがて家の窓が開き、年配の女性が顔を出す。 「アンナ、今日は来客かい?」 「うん。道を通るから、紐を揺らしたよ」  女性は私たちを見て頷いた。アンナが言わなければ、霧の向こうを歩く人影に気づかなかったかもしれない。 「この道、みんなで作ったの?」と私が尋ねる。 「隣の家に行けなくなって困ったから。最初は二軒だけ。つなぎたい人が自分の布を持ってきて、増やしたの」  彼女は籠から青い端切れを一枚取り出した。 「今日は切れかけたところを替える。結び直す間、向こうの人に待ってもらわないと」  アンナは鈴を二度鳴らし、返事の一音を待ってから紐をほどいた。私も手伝おうとしたが、彼女は首を振る。 「結び方には順番があるの。先に別の紐を張って、それから古いのを外す」 「なるほど。途中で道がなくならないように」 「そう。見てて」  細い指が新しい布を二重に巻き、ほどきやすい輪を残して結ぶ。引いて確かめると、先の鈴が澄んだ音を返した。 「上手ですね」とノアが言った。「描いてもいい? 顔じゃなくて、この結び目」 「いいよ。でも、間違えないでね。ほどけたら困るから」 「責任重大だ」  ノアが画板を開く。私は端切れの揺れを見つめた。避難所の子どもたちの腕輪にも、こんな結び目があった。あれも、離れた相手を忘れないようにと結んだものだ。  こちらの布が霧を退けているかは、まだわからない。それでも、この紐が人から人へ道を渡していることは、目の前で確かに見えた。  アンナが私の左袖に気づいた。 「その赤い縫い目、自分で直したの?」 「うん。母に教わった縫い方で」 「丈夫そう。今度、教えて」 「喜んで。代わりに、この結び方を教えてくれる?」 「いいよ。まず、紐を引っ張りすぎないこと」  さっそく端切れを渡され、私は言われたとおりに結んだ。ところが輪が小さすぎて、指を入れる隙間がない。 「ほどけないね」とアンナ。 「丈夫さだけなら合格かもしれません」とエリオットが言う。 「殿下もやってみてください」  差し出すと、彼は困ったように手袋を見た。それから片手で布を押さえ、もう片方で輪を作る。少し不格好な結び目ができた。 「こちらは、すぐほどけそう」  アンナが判定すると、王子は真面目に頷いた。 「では、二人とも再試験ですね」  笑いが霧の中に広がった。誰かの明日を預かる手が、今はただ小さな布に苦戦している。そのことが、私には不思議なくらい嬉しかった。  鈴がまた鳴る。窓辺の女性がこちらに手を振り、アンナは籠を持ち上げた。 「うちに来て。お茶くらいは出せるよ。調べたい布も、まず見せるから」  セラの足が止まる。アンナは姉を見上げ、少し唇を結んだ。 「でも、姉さんには聞きたいことがある。王宮から届いた布のこと」  セラの表情から笑みが消えた。霧の向こう、家の窓に掛かった白い布が、風もないのにかすかに揺れていた。

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