明日を縫う、忘却の花嫁

第27話 守る布の裏側

 アンナの家の窓には、白い布が二重に掛かっていた。 「外側が王宮から届いた暁布。内側は私たちで繕った布」  彼女は窓から少し離れた場所を指した。外の霧は窓辺を避けるように流れている。 「掛けたばかりの頃は、家の中まで白くならなくなった。だから、助かったのは本当」  アンナは湯を注ぎ、客の前に茶碗を並べる。最後の一つをセラの前に置いたときだけ、音が少し大きくなった。 「でも、古くなると変なの。向かいのおばさんが、毎朝通るパン屋さんの名前を忘れた。店の場所も、パンの味も覚えているのに」  ノアが画板を膝に置いた。私も茶碗に手を伸ばしかけて、止める。 「霧に触れたのではなく、布のせいだと?」  エリオットの問いに、アンナは首を傾げた。 「最初はわからなかった。窓を閉めていても、似たことが続いたから。布を新しいものに替えたら、忘れる人は減った。でも、もう忘れた名前は戻らなかった」 「交換した古い布は?」とセラが訊く。 「触らないよう、箱に入れてある。見せるけど、勝手に持っていかないで」  アンナは棚の下から木箱を出した。蓋の内側に、日付と家の印が書かれている。 「誰の家の布か、いつ外したか。皆に聞いて、私が書いた。間違いがあったら直せるように鉛筆でね」  ノアが感心したように覗き込む。 「記録の先輩だ」 「消しゴム、貸そうか?」 「僕の絵にも必要になるかもしれない」  少しだけ笑いが生まれた。けれど蓋が開くと、部屋の空気が張りつめる。  畳まれた布の端に、黒い細い筋が走っていた。焦げではない。白い繊維の間から滲むように、糸が暗く染まっている。 「あの旗にも、似た糸が……」  私が呟くと、セラの肩が揺れた。彼女は箱へ手を伸ばし、途中で止める。 「調べてもいい?」 「箱の中で見るだけなら」  アンナの返事を待って、セラは布の端を慎重に広げた。私も隣に座る。触れずとも、ほつれの奥に引っかかるような感覚があった。誰かの願いの形を読み取ろうとはしない。ただ、乱れた縫い目だけを見た。 「霧を退ける縫い方です」とセラが言った。「けれど、力を保つための糸が、古くなるにつれて別のものを絡め取っている」 「別のものって?」 「人の記憶よ」  アンナの指が箱の縁を強く掴んだ。 「姉さん、知ってたの?」  セラは答えなかった。窓の向こうで鈴が鳴る。誰かが道を通る、ごく普通の合図だった。 「知っていたわ」  やがて彼女はそう言った。 「王宮の布が古くなったとき、近くの人に記憶の欠落が起きる可能性があると。報告書を見たの。布を替えれば霧は退くから、被害との関係は外に出さないよう命じられた」 「それで、黙ってた?」 「ええ。交換を早めるよう頼みはした。でも、街の人に危険を伝えなかった。報告の書き方も、上に言われるまま変えた」  セラは膝の上で手を組んだ。指先が白い。 「あなたに手紙を書こうとして、何度もやめた。知ればあなたが怖がると思ったし、王宮に逆らえば、ここへ布が届かなくなるかもしれなかった。けれど、それを理由に、あなたたちが知る機会を奪った」 「怖がるに決まってるでしょ」  アンナの声は大きくなかった。だからこそ、一つひとつが部屋に残った。 「知ってたら、もっと早く外せたかもしれない。でも外したら霧が入る。どっちも怖いから、皆で考えたかった」 「……ごめんなさい」 「謝られても、おばさんの忘れた名前は戻らない」  セラは頷いた。許してほしいとは言わなかった。  私の胸に、あの職人と娘の顔が浮かぶ。黒い糸を切っても戻らなかった記憶。正しいことをしたつもりで、返せないものを奪った私の手。 「古い布を外すだけでは、霧から家を守れないんですね」と私は言った。 「そう。だから勝手に捨てないで」アンナは木箱の蓋を押さえる。「これは証拠でもあるから」  エリオットが深く頭を下げた。 「王宮が危険を伝えなかったこと、申し訳ありません。私も、街の記録と交換の履歴を調べます。この箱を持ち出すかどうかは、皆さんと相談させてください」 「皆にも聞いて。私一人では決めない」 「もちろんです」  彼は顔を上げたが、箱には触れなかった。アンナもすぐには頷かず、茶碗の湯気を見つめた。  そのとき、外の鈴が慌ただしく鳴った。一度、二度、間を置かずもう一度。アンナが立ち上がり、窓を少しだけ開ける。 「どうしたの?」  霧の向こうから、先ほどの窓辺の女性の声がした。 「向かいの家の人が、うちの前で立ち尽くしてる。私の顔がわからないって」  アンナの顔色が変わる。彼女は振り返り、壁の紐に手を伸ばした。 「私、行ってくる。姉さんたちは、まず新しい布に替えられるか調べて。持ち主の人にも聞いてから」 「一緒に行こう」とノアが画板を背負う。「道を描いておくよ」  二人は鈴を鳴らし、返事を待ってから霧へ出た。  残された白い布の上で、黒い筋が一本、折り目の奥まで続いている。守るために掛けられたものが、誰かを忘れさせるかもしれない。 「次の交換を待つだけでは駄目だ」  エリオットの声は静かだった。セラは木箱を閉じ、私を見る。 「記録を持って、街の人たちに話しましょう。私が黙っていたことも含めて」  窓の外で、鈴がもう一度鳴った。今度は、向こう側からの返事だった。

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