広場に集まった人たちは、王子の顔より先に、セラの抱える木箱を見た。
アンナが家々を回り、話を聞く場所を知らせてくれたのだ。霧の薄い井戸端には、椅子のほか、立ったまま帰れるように道が空けてある。
「王宮の布を替えた家から、順に話してください」
アンナに促され、セラは箱を開いた。黒い筋のある布、交換の日付、報告を書き換えたこと。言い訳を挟まず話し終えると、誰かが短く息を呑んだ。
「うちの父も、去年から弟の名前を忘れてる」
鍛冶屋の男が言った。「霧のせいだと思ってた。布を掛けろと言ったのは俺だ」
「あなたのせいではありません」セラは答えた。「危険を知らせなかった私たちの責任です」
「それで、父の記憶は戻るのか」
セラは黙った。私は男の手を見た。爪の間に煤が残り、握りしめた拳が震えている。
「戻るとは、言えません」
彼女の答えに、男は椅子を蹴った。乾いた音が響く。誰も彼を咎めなかった。
「では何をしに来た。謝れば済むと思ったのか」
「済むとは思っていません」
エリオットが一歩前に出た。手袋をした手を、身体の脇にまっすぐ下ろしている。
「王宮が危険を隠し、皆さんに選ぶ機会を渡さなかった。王家の一員として責任を認めます。申し訳ありません」
深く下げた頭に、男の声が降った。
「王子様は、うちの父の名前も知らないだろう」
「知りません。教えていただけるなら、記録します。話したくなければ、無理に伺いません」
「記録して、それで?」
「被害と必要な支援を確かめ、補償します。王宮に戻り次第、交換履歴と報告書を調べ、結果をこの街に伝えます。私一人で金額や方法を決めず、皆さんと話し合う場も設けます」
老人が杖を鳴らした。
「今夜はどうする。古い布を外せば霧が入るんだぞ」
「新しい布の在庫を調べ、交換を希望する家に届けます。足りない分は手配します。その間は、避難したい方の場所と道を確保したい」
「残りたい者は?」
「危険をお伝えしたうえで、できる限り見守ります。勝手に家から連れ出したり、布を外したりはしません」
約束は大きく、今ここにある布は少ない。私が不安になったのを見透かしたように、セラが言った。
「在庫と交換の順番を、この場で確かめましょう。私が布の状態を調べます。持ち主の方が望む場合だけ」
「記録は俺たちも見る」と鍛冶屋の男が言った。「王宮の紙だけじゃ信用できない」
「はい。一緒に確認してください」
ノアは井戸端の板に家の位置を描き、アンナは避難先までの鈴の合図を書き足した。名前を載せたくない人には印だけを使う。地図は完成するたび、間違いがないか見せて回った。
私は交換用の布の端を折って、ほつれを留める。これだけで霧を退ける力が増すわけではない。それでも、運ぶ途中に傷まないようにできる。
「その折り方、丈夫そう」
アンナが覗き込む。「私にも教えて。全部あなたがやると、日が暮れちゃう」
「先生は厳しいよ。縫い目が曲がると、お茶のおかわりが一杯減ります」
「じゃあ先に三杯飲んでおく」
私たちは少し笑って、針を持ち直した。すぐ隣では、セラが住民に頭を下げている。アンナは姉を見たが、代わりに謝りには行かなかった。
作業がひと区切りついた頃、エリオットが井戸の縁に腰を下ろした。王子らしく背筋を伸ばしたまま、長い息を吐く。
「お疲れさまです」
「怒られる役には慣れているつもりでしたが、今日は言葉を選ぶたび、自分が何も知らなかったとわかりました」
「知らなかったことを、知らないままにしないでくださいね」
「厳しい先生だ」
「お茶を減らしますよ」
彼がかすかに笑った。その手の白い手袋に、私は目を留める。あの下には、結界の代価として縫い込まれた傷がある。街を守ってきた力も、古い布の危険も、彼一人が決めたことではない。それでも彼は王家の責任から逃げなかった。
彼を守りたい、と思った。
結界を動かすための道具としてではなく、怒りを受け止め、知らなかった名前を覚えようとする、この人自身を。
「ミオ?」
「いえ。次の布を運びましょう」
立ち上がると、彼も手を貸してくれた。荷物の重さを分け合っただけなのに、指先が妙に熱い。
広場の端では、さっきの鍛冶屋の男がノアに父親の名を告げていた。書き終えた紙を、男自身が確かめる。紙の上に戻るのは名前だけだ。それでも、これから何を求めるかを決めるための一枚になる。
夕暮れが近づき、霧の向こうで鈴が鳴った。アンナは耳を澄まし、地図に描いた道を指さす。
「帰ってきた人がいる。まだ布の届いていない家も教えてもらおう」
私たちは布を抱え、返事の鈴を鳴らした。