明日を縫う、忘却の花嫁

第28話 名前を受け止める場所

 広場に集まった人たちは、王子の顔より先に、セラの抱える木箱を見た。  アンナが家々を回り、話を聞く場所を知らせてくれたのだ。霧の薄い井戸端には、椅子のほか、立ったまま帰れるように道が空けてある。 「王宮の布を替えた家から、順に話してください」  アンナに促され、セラは箱を開いた。黒い筋のある布、交換の日付、報告を書き換えたこと。言い訳を挟まず話し終えると、誰かが短く息を呑んだ。 「うちの父も、去年から弟の名前を忘れてる」  鍛冶屋の男が言った。「霧のせいだと思ってた。布を掛けろと言ったのは俺だ」 「あなたのせいではありません」セラは答えた。「危険を知らせなかった私たちの責任です」 「それで、父の記憶は戻るのか」  セラは黙った。私は男の手を見た。爪の間に煤が残り、握りしめた拳が震えている。 「戻るとは、言えません」  彼女の答えに、男は椅子を蹴った。乾いた音が響く。誰も彼を咎めなかった。 「では何をしに来た。謝れば済むと思ったのか」 「済むとは思っていません」  エリオットが一歩前に出た。手袋をした手を、身体の脇にまっすぐ下ろしている。 「王宮が危険を隠し、皆さんに選ぶ機会を渡さなかった。王家の一員として責任を認めます。申し訳ありません」  深く下げた頭に、男の声が降った。 「王子様は、うちの父の名前も知らないだろう」 「知りません。教えていただけるなら、記録します。話したくなければ、無理に伺いません」 「記録して、それで?」 「被害と必要な支援を確かめ、補償します。王宮に戻り次第、交換履歴と報告書を調べ、結果をこの街に伝えます。私一人で金額や方法を決めず、皆さんと話し合う場も設けます」  老人が杖を鳴らした。 「今夜はどうする。古い布を外せば霧が入るんだぞ」 「新しい布の在庫を調べ、交換を希望する家に届けます。足りない分は手配します。その間は、避難したい方の場所と道を確保したい」 「残りたい者は?」 「危険をお伝えしたうえで、できる限り見守ります。勝手に家から連れ出したり、布を外したりはしません」  約束は大きく、今ここにある布は少ない。私が不安になったのを見透かしたように、セラが言った。 「在庫と交換の順番を、この場で確かめましょう。私が布の状態を調べます。持ち主の方が望む場合だけ」 「記録は俺たちも見る」と鍛冶屋の男が言った。「王宮の紙だけじゃ信用できない」 「はい。一緒に確認してください」  ノアは井戸端の板に家の位置を描き、アンナは避難先までの鈴の合図を書き足した。名前を載せたくない人には印だけを使う。地図は完成するたび、間違いがないか見せて回った。  私は交換用の布の端を折って、ほつれを留める。これだけで霧を退ける力が増すわけではない。それでも、運ぶ途中に傷まないようにできる。 「その折り方、丈夫そう」  アンナが覗き込む。「私にも教えて。全部あなたがやると、日が暮れちゃう」 「先生は厳しいよ。縫い目が曲がると、お茶のおかわりが一杯減ります」 「じゃあ先に三杯飲んでおく」  私たちは少し笑って、針を持ち直した。すぐ隣では、セラが住民に頭を下げている。アンナは姉を見たが、代わりに謝りには行かなかった。  作業がひと区切りついた頃、エリオットが井戸の縁に腰を下ろした。王子らしく背筋を伸ばしたまま、長い息を吐く。 「お疲れさまです」 「怒られる役には慣れているつもりでしたが、今日は言葉を選ぶたび、自分が何も知らなかったとわかりました」 「知らなかったことを、知らないままにしないでくださいね」 「厳しい先生だ」 「お茶を減らしますよ」  彼がかすかに笑った。その手の白い手袋に、私は目を留める。あの下には、結界の代価として縫い込まれた傷がある。街を守ってきた力も、古い布の危険も、彼一人が決めたことではない。それでも彼は王家の責任から逃げなかった。  彼を守りたい、と思った。  結界を動かすための道具としてではなく、怒りを受け止め、知らなかった名前を覚えようとする、この人自身を。 「ミオ?」 「いえ。次の布を運びましょう」  立ち上がると、彼も手を貸してくれた。荷物の重さを分け合っただけなのに、指先が妙に熱い。  広場の端では、さっきの鍛冶屋の男がノアに父親の名を告げていた。書き終えた紙を、男自身が確かめる。紙の上に戻るのは名前だけだ。それでも、これから何を求めるかを決めるための一枚になる。  夕暮れが近づき、霧の向こうで鈴が鳴った。アンナは耳を澄まし、地図に描いた道を指さす。 「帰ってきた人がいる。まだ布の届いていない家も教えてもらおう」  私たちは布を抱え、返事の鈴を鳴らした。

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