明日を縫う、忘却の花嫁

第29話 霧の夜に握る手

 夜の街では、鈴の音が灯りの代わりになった。  家から家へ渡した布の端に、小さな鈴を結ぶ。霧が濃くなって姿が見えなくても、揺らせば隣へ知らせられる。アンナの案だ。 「三回鳴ったら道を確かめる。一回なら、ここにいるよって合図」  彼女は私の手に鈴を載せた。「返事をしない自由もあるけど、寒い中で心配する人がいるから、元気なときは一回くらい鳴らしてね」 「了解、先生」 「お茶は減らさないから安心して」  昼間、私が教えた折り方を、アンナはもう別の家の人に教えていた。縫い目は少し曲がっている。でも布を運ぶには十分丈夫だ。  最後の一枚を届けて戻ると、避難所の戸口にエリオットが立っていた。灯りを背にした横顔は、疲れているのに、まだ誰かを待っているように見える。 「交代の見張りは?」 「来てくれました。私は少し歩いていただけです」 「王子様の『少し』は信用できません」 「心外ですね。今日はちゃんと椅子にも座りました」 「井戸端で一回だけです」  言い返しかけた彼が、ふっと笑った。昼間の、住民たちの怒りを受け止めた顔が浮かぶ。あの場で聞いた名前を、彼は手帳に書いていた。今夜も忘れないよう、何度も確かめたのだろう。  向かいの軒下に、腰掛けられる木箱が二つあった。私は片方を指さす。 「監視します。ここで休んでください」 「ずいぶん厳重な警備だ」 「お茶を減らす権限も持っています」  彼は観念して座り、私は隣に腰を下ろした。軒先の布が風に揺れるたび、結んだ鈴がかすかに鳴る。白い霧は通りの向こうを塞いでいたが、家々の灯りはまだ消えていない。 「今日、補償すると言いました」  エリオットが手帳を見下ろす。 「何を失ったか、私には測れません。それでも王宮に戻ったら、記録を調べて、皆さんと話し合う場を作る。言ったことを、他の誰かに預けたままにはしたくない」 「一緒に確かめます。セラさんも、ノアも、アンナもいます」 「ええ。……あなたがいることにも、助けられています」  真っ直ぐ言われて、私は鈴の紐をいじった。冷えた金具が指に触れる。 「でも、私にできるのは布を運んだり、話を聞いたりすることくらいで」 「それを『くらい』と言うなら、私が椅子に座ったのも大した仕事ではありませんね」 「それは立派な仕事です。続けてください」  また笑い合った。けれど彼の笑みは、霧の方を向いた途端、静かに消えた。 「ミオ。あなたは、明日の朝を考えられますか」 「朝ごはんなら。温かいスープがあると嬉しいです」 「私は、その続きを自分のこととして思い描こうとすると、何も見えなくなる」  知っていたはずだった。彼が結界の代価になり、自分の明日を思い描けないことを。それでも、言葉にされた空白は、私が想像したよりずっと冷たく感じられた。 「明日の仕事を指示することはできます。人が食事をするのも、鐘が鳴るのもわかる。けれど、その中に自分がいるところだけが、どうしても浮かばない」  彼は手袋の指先を握った。 「結界が切れれば私は死ぬ。だから見えないのだと、納得しようとしました。役に立っている間は、それでいいと」  霧の向こうで鈴が一度鳴る。少し遅れて別の家からも返事があった。 「ですが今日、あの人たちの話を聞いて、戻って調べると言ったとき……怖くなったんです。明日が来ないのではなく、来たとしても、自分がそこにいると信じられないことが」  彼の声は小さかった。王子としての言葉ではなく、やっと差し出された本音のように思えた。  私はすぐに大丈夫とは言えなかった。結界の仕組みも、彼を解放する方法も、まだわからない。約束だけで、その恐れを消せない。 「手を握ってもいいですか」  エリオットがこちらを見る。やがて、ほんの少しうなずいた。  手袋越しの手は冷たく、思ったより大きかった。私は指を重ねる。彼もゆっくり握り返した。 「私も、帰れるかどうかわからないんです」  言ってから、胸の奥が痛んだ。向こうの世界に残した母の顔を思い浮かべる。帰りたい気持ちと、ここで出会った人たちを置いていけない気持ちは、まだきれいに分けられない。 「だから、見えない明日を平気だとは言えません。でも、今ここで怖いって聞くことはできます」 「あなたまで不安にさせた」 「もともと不安です。一人分増えたわけじゃありません」  彼は目を伏せ、握った手に少し力を込めた。 「明日もこうして、とは言えないんです」 「はい」 「言いたいと思っても、その約束を守れる自分が見えない」 「じゃあ、今だけでいいです。寒いので、もう少し握っていてください」 「それなら、できます」  霧は晴れなかった。彼の明日も、私の帰り道も見つからない。それでも手の温度は、確かにここにあった。  やがて避難所の戸が開き、ノアが顔を出した。 「二人とも、温かいスープが残ってる。アンナが倉庫を片づける人も募集してるけど」 「先にスープをいただきます」エリオットが言う。 「休む仕事、続けられそうですね」  私たちは手を離して立ち上がった。鈴を一度鳴らし、灯りのある戸口へ向かう。倉庫の奥に何が残っているのか、そのときはまだ誰も知らなかった。

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