夜の街では、鈴の音が灯りの代わりになった。
家から家へ渡した布の端に、小さな鈴を結ぶ。霧が濃くなって姿が見えなくても、揺らせば隣へ知らせられる。アンナの案だ。
「三回鳴ったら道を確かめる。一回なら、ここにいるよって合図」
彼女は私の手に鈴を載せた。「返事をしない自由もあるけど、寒い中で心配する人がいるから、元気なときは一回くらい鳴らしてね」
「了解、先生」
「お茶は減らさないから安心して」
昼間、私が教えた折り方を、アンナはもう別の家の人に教えていた。縫い目は少し曲がっている。でも布を運ぶには十分丈夫だ。
最後の一枚を届けて戻ると、避難所の戸口にエリオットが立っていた。灯りを背にした横顔は、疲れているのに、まだ誰かを待っているように見える。
「交代の見張りは?」
「来てくれました。私は少し歩いていただけです」
「王子様の『少し』は信用できません」
「心外ですね。今日はちゃんと椅子にも座りました」
「井戸端で一回だけです」
言い返しかけた彼が、ふっと笑った。昼間の、住民たちの怒りを受け止めた顔が浮かぶ。あの場で聞いた名前を、彼は手帳に書いていた。今夜も忘れないよう、何度も確かめたのだろう。
向かいの軒下に、腰掛けられる木箱が二つあった。私は片方を指さす。
「監視します。ここで休んでください」
「ずいぶん厳重な警備だ」
「お茶を減らす権限も持っています」
彼は観念して座り、私は隣に腰を下ろした。軒先の布が風に揺れるたび、結んだ鈴がかすかに鳴る。白い霧は通りの向こうを塞いでいたが、家々の灯りはまだ消えていない。
「今日、補償すると言いました」
エリオットが手帳を見下ろす。
「何を失ったか、私には測れません。それでも王宮に戻ったら、記録を調べて、皆さんと話し合う場を作る。言ったことを、他の誰かに預けたままにはしたくない」
「一緒に確かめます。セラさんも、ノアも、アンナもいます」
「ええ。……あなたがいることにも、助けられています」
真っ直ぐ言われて、私は鈴の紐をいじった。冷えた金具が指に触れる。
「でも、私にできるのは布を運んだり、話を聞いたりすることくらいで」
「それを『くらい』と言うなら、私が椅子に座ったのも大した仕事ではありませんね」
「それは立派な仕事です。続けてください」
また笑い合った。けれど彼の笑みは、霧の方を向いた途端、静かに消えた。
「ミオ。あなたは、明日の朝を考えられますか」
「朝ごはんなら。温かいスープがあると嬉しいです」
「私は、その続きを自分のこととして思い描こうとすると、何も見えなくなる」
知っていたはずだった。彼が結界の代価になり、自分の明日を思い描けないことを。それでも、言葉にされた空白は、私が想像したよりずっと冷たく感じられた。
「明日の仕事を指示することはできます。人が食事をするのも、鐘が鳴るのもわかる。けれど、その中に自分がいるところだけが、どうしても浮かばない」
彼は手袋の指先を握った。
「結界が切れれば私は死ぬ。だから見えないのだと、納得しようとしました。役に立っている間は、それでいいと」
霧の向こうで鈴が一度鳴る。少し遅れて別の家からも返事があった。
「ですが今日、あの人たちの話を聞いて、戻って調べると言ったとき……怖くなったんです。明日が来ないのではなく、来たとしても、自分がそこにいると信じられないことが」
彼の声は小さかった。王子としての言葉ではなく、やっと差し出された本音のように思えた。
私はすぐに大丈夫とは言えなかった。結界の仕組みも、彼を解放する方法も、まだわからない。約束だけで、その恐れを消せない。
「手を握ってもいいですか」
エリオットがこちらを見る。やがて、ほんの少しうなずいた。
手袋越しの手は冷たく、思ったより大きかった。私は指を重ねる。彼もゆっくり握り返した。
「私も、帰れるかどうかわからないんです」
言ってから、胸の奥が痛んだ。向こうの世界に残した母の顔を思い浮かべる。帰りたい気持ちと、ここで出会った人たちを置いていけない気持ちは、まだきれいに分けられない。
「だから、見えない明日を平気だとは言えません。でも、今ここで怖いって聞くことはできます」
「あなたまで不安にさせた」
「もともと不安です。一人分増えたわけじゃありません」
彼は目を伏せ、握った手に少し力を込めた。
「明日もこうして、とは言えないんです」
「はい」
「言いたいと思っても、その約束を守れる自分が見えない」
「じゃあ、今だけでいいです。寒いので、もう少し握っていてください」
「それなら、できます」
霧は晴れなかった。彼の明日も、私の帰り道も見つからない。それでも手の温度は、確かにここにあった。
やがて避難所の戸が開き、ノアが顔を出した。
「二人とも、温かいスープが残ってる。アンナが倉庫を片づける人も募集してるけど」
「先にスープをいただきます」エリオットが言う。
「休む仕事、続けられそうですね」
私たちは手を離して立ち上がった。鈴を一度鳴らし、灯りのある戸口へ向かう。倉庫の奥に何が残っているのか、そのときはまだ誰も知らなかった。