明日を縫う、忘却の花嫁

第4話 王宮の縫い手

王宮の門をくぐったとたん、馬車の窓が白く曇った。 「霧ですか?」 「外側を守る暁布の近くでは、よく見えます」 エリオットが窓を少し開けると、冷たい空気が入り、白いものは指先を避けるように散った。 馬車を降りた先には、長い建物があった。開け放たれた窓から糸巻きの転がる音と、誰かの笑い声が聞こえる。 「工房へご案内します。ただし、筆頭縫い手は僕よりずっと厳しい」 「王子様にもですか?」 「特に王子様に、です」 その言葉が本当だとわかるまで、三分もかからなかった。 「殿下。泥のついた靴で入らないでください」 扉の向こうから現れた女性は、濃い色の髪をきっちり結い、袖を肘までまくっていた。エリオットは素直に敷物の上で靴底を拭く。 「セラ・ヴェルンです。この工房を預かっています。あなたが市場の」 「ミオ・ハルカです。突然お邪魔して、すみません」 セラは私の左袖に目を留めた。 「その赤い縫い目、ご自分で?」 「はい。母に習った返し縫いです」 「少し見せてもらえますか」 許可を求められて、私は腕を差し出した。セラは針目の表と裏をじっと確かめる。 「針を戻して、次の一針を支えている。丈夫な縫い方ですね」 「ほつれても、すぐ全部はほどけないんです」 「暁布にも似た針運びがあります。ただし、形が似ているだけで同じ技術とは限りません」 彼女は作業台の薄い布を指した。朝焼けのような色の糸が細かく重なっている。 「暁布は願いを留め、霧を退けます。縫い手は長く訓練し、どんな願いを扱うか確かめてから針を入れる。あなたは何を縫ったのか知らなかったのでしょう」 ルカの上着を思い出す。助けたかった。けれど、あの子の願いに触れることまで、私は尋ねていなかった。 「はい。上着を直していいかは聞きました。でも、願いのことは知らなかった」 「結果がよかったからといって、次も安全とは言えません。正式な訓練のない方を、霧に近づけるわけにはいかない」 厳しい言葉だった。でも、怒鳴るのではなく、私の手元を見ながら言ってくれた。 エリオットが口を開く。 「ミオは帰る方法を探したいそうです。彼女のいた場所について、王宮の記録を調べられないでしょうか」 「帰る場所の名は?」 「日本、です。駅で事故に遭って……気づいたら市場にいました」 セラは首を振る。 「聞いたことがありません。ですが、古い渡来人の記録なら書庫にあるかもしれません。調べる手配はしましょう」 「本当ですか」 胸の奥が熱くなる。母は私を探しているだろうか。電話もできないまま、どれくらい時間がたったのだろう。 「その代わり、と言っては何ですが」 セラは小さな木箱を開けた。針と糸、そして端切れがきれいに並んでいる。 「工房で調べものを手伝ってもらうなら、まず技術と判断を見せてください。試験です。危険な暁布ではなく、普通の布を使います」 「落ちたら、帰る方法は調べてもらえないんですか?」 「書庫の確認は約束します。合否とは別です。ただ、工房の仕事を任せられるかは別に決めます」 まっすぐな答えに、私は息をついた。 「受けます。知らないまま誰かを傷つけるのは、嫌だから」 セラは頷き、端切れを一枚差し出した。 「では、糸を選ぶところから。針目だけでなく、なぜそれを選んだかも聞きます」 エリオットが横から箱を覗く。 「僕も受けたことがあります。開始前に糸を絡ませて失格でした」 「殿下は試験ではなく、練習です」 「訂正が厳しい」 思わず笑うと、セラの口元もほんの少しだけ緩んだ。 帰る道はまだ遠い。それでも、ここでできる一針がある。私は木箱から糸を選び、セラの前に置いた。 「お願いします」 そのとき、工房の奥で誰かが叫んだ。 「セラさん、訓練用の旗が裂けています!」 セラは私の選んだ糸を見て、それから声のした方へ振り向いた。 「ちょうどいい。次は、その旗を見てもらいましょう」

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