王宮の門をくぐったとたん、馬車の窓が白く曇った。
「霧ですか?」
「外側を守る暁布の近くでは、よく見えます」
エリオットが窓を少し開けると、冷たい空気が入り、白いものは指先を避けるように散った。
馬車を降りた先には、長い建物があった。開け放たれた窓から糸巻きの転がる音と、誰かの笑い声が聞こえる。
「工房へご案内します。ただし、筆頭縫い手は僕よりずっと厳しい」
「王子様にもですか?」
「特に王子様に、です」
その言葉が本当だとわかるまで、三分もかからなかった。
「殿下。泥のついた靴で入らないでください」
扉の向こうから現れた女性は、濃い色の髪をきっちり結い、袖を肘までまくっていた。エリオットは素直に敷物の上で靴底を拭く。
「セラ・ヴェルンです。この工房を預かっています。あなたが市場の」
「ミオ・ハルカです。突然お邪魔して、すみません」
セラは私の左袖に目を留めた。
「その赤い縫い目、ご自分で?」
「はい。母に習った返し縫いです」
「少し見せてもらえますか」
許可を求められて、私は腕を差し出した。セラは針目の表と裏をじっと確かめる。
「針を戻して、次の一針を支えている。丈夫な縫い方ですね」
「ほつれても、すぐ全部はほどけないんです」
「暁布にも似た針運びがあります。ただし、形が似ているだけで同じ技術とは限りません」
彼女は作業台の薄い布を指した。朝焼けのような色の糸が細かく重なっている。
「暁布は願いを留め、霧を退けます。縫い手は長く訓練し、どんな願いを扱うか確かめてから針を入れる。あなたは何を縫ったのか知らなかったのでしょう」
ルカの上着を思い出す。助けたかった。けれど、あの子の願いに触れることまで、私は尋ねていなかった。
「はい。上着を直していいかは聞きました。でも、願いのことは知らなかった」
「結果がよかったからといって、次も安全とは言えません。正式な訓練のない方を、霧に近づけるわけにはいかない」
厳しい言葉だった。でも、怒鳴るのではなく、私の手元を見ながら言ってくれた。
エリオットが口を開く。
「ミオは帰る方法を探したいそうです。彼女のいた場所について、王宮の記録を調べられないでしょうか」
「帰る場所の名は?」
「日本、です。駅で事故に遭って……気づいたら市場にいました」
セラは首を振る。
「聞いたことがありません。ですが、古い渡来人の記録なら書庫にあるかもしれません。調べる手配はしましょう」
「本当ですか」
胸の奥が熱くなる。母は私を探しているだろうか。電話もできないまま、どれくらい時間がたったのだろう。
「その代わり、と言っては何ですが」
セラは小さな木箱を開けた。針と糸、そして端切れがきれいに並んでいる。
「工房で調べものを手伝ってもらうなら、まず技術と判断を見せてください。試験です。危険な暁布ではなく、普通の布を使います」
「落ちたら、帰る方法は調べてもらえないんですか?」
「書庫の確認は約束します。合否とは別です。ただ、工房の仕事を任せられるかは別に決めます」
まっすぐな答えに、私は息をついた。
「受けます。知らないまま誰かを傷つけるのは、嫌だから」
セラは頷き、端切れを一枚差し出した。
「では、糸を選ぶところから。針目だけでなく、なぜそれを選んだかも聞きます」
エリオットが横から箱を覗く。
「僕も受けたことがあります。開始前に糸を絡ませて失格でした」
「殿下は試験ではなく、練習です」
「訂正が厳しい」
思わず笑うと、セラの口元もほんの少しだけ緩んだ。
帰る道はまだ遠い。それでも、ここでできる一針がある。私は木箱から糸を選び、セラの前に置いた。
「お願いします」
そのとき、工房の奥で誰かが叫んだ。
「セラさん、訓練用の旗が裂けています!」
セラは私の選んだ糸を見て、それから声のした方へ振り向いた。
「ちょうどいい。次は、その旗を見てもらいましょう」