明日を縫う、忘却の花嫁

第31話 遅れて響く鐘

 街を離れる朝、アンナは私たちに小さな布袋を渡した。 「設計図が濡れないように。油紙だけだと角が破れそうだから」  袋の口には、解きやすいよう大きな結び目がついている。中には住民たちと相談して預かった原本と、ノアが描いた写しを入れた。原本は王宮で調べた後、街へ返す約束だ。 「写しも置いておいたから、こっちでも箱のことを聞いてみるね」 「ありがとう。何かわかったら知らせて」  私が言うと、アンナはうなずき、セラの襟を直した。 「姉さんも、ちゃんと眠って」 「あなたに言われるとは思わなかったわ」 「じゃあ、覚えておいて」  セラは返事をするまでに少し時間をかけた。「ええ」と答えた声は、朝の空気に静かに残った。  馬車が動き出すと、アンナは道の脇で手を振った。隣には、街の人たちが結んだ端切れが揺れている。霧の中で居場所を知らせるための布だ。小さくなっても見えなくなるまで、私は窓から手を振り返した。 「袋、膝に置いておきますね」  エリオットが私の向かいで手を差し出す。 「殿下が持つと、返してもらうときに緊張しそうです」 「では、預かり賃を請求しましょうか」 「高いですか?」 「温かいお茶一杯で」  昨夜、握った手の温度を思い出す。明日の約束を交わさなかったことも。私は袋を彼の膝へ渡しながら、今ならできる返事を選んだ。 「王宮に着いたら、私が淹れます」 「楽しみにしています」  彼はそう言って、袋を丁寧に抱えた。  昼近く、道は低い丘の間を通った。御者が馬を休ませるために止まり、ノアが水筒を配る。遠くに王宮の尖塔がかすんで見えた。  そのとき、鐘が鳴った。  王宮の方から、澄んだ音が一つ。少し置いてもう一つ、さらにもう一つ。昼を知らせる鐘だとセラが言う。  遅れて、背後の街からも音が届いた。一つ、二つ、三つ。ところが最後の響きが消えたと思った瞬間、もう一度だけ、鈍い音が丘を渡ってきた。 「四つ?」ノアが振り返る。 「山に返ったのかしら」とセラは言ったが、眉を寄せた。「あの鐘がこんなふうに聞こえるのは初めてよ」  街と王宮の鐘は同じ数を打つはずだという。遠い音が遅れて届くのはわかる。でも今の一つは、三つ目の余韻とも違って聞こえた。 「鳴り間違いかもしれません。戻って確かめたいところですが」  エリオットが言い終える前に、御者が馬を押さえた。  白いものが、道の向こうを横切っていた。朝の薄い靄ではない。地面に沿って流れ、石垣を隠し、草の先を飲み込んでいく。 「霧だ!」  ノアが叫ぶ。馬が後ずさりし、車輪が石に当たった。袋を抱えたエリオットが降りようとするのを、セラが止める。 「不用意に近づかないで。迂回路を探しましょう」  御者は右手の坂を指した。古い荷車道が丘を越え、先で王都への道につながるという。けれど入口には倒木が横たわっていた。 「私とノアで動かします。ミオはセラと馬を落ち着かせて」 「袋は?」 「あなたにお願いします」  彼はためらわず袋を渡した。私は肩から掛け、馬のそばへ走る。セラは御者に手綱を任せ、馬の目に入る布をそっと整えた。馬に語りかける声が震えている。怖いのは私だけではなかった。  ノアとエリオットが枝を引く。幹は重く、土を削って少しずつしか動かない。その間にも霧は道の手前まで迫った。 「もっと右へ!」  御者の声に、二人が力を合わせる。幹が溝に落ち、荷車一台分の隙間ができた。 「乗ってください!」  エリオットがノアを先に押し上げ、自分も後部の手すりにつかまる。私は袋を抱きしめたまま、車内から彼の腕をつかんだ。馬車が坂を駆け上がり、揺れに体がぶつかる。  振り返ると、さっきまで私たちがいた道は白く塞がっていた。追ってくるのかどうか、霧の端は揺れて判然としない。 「全員、いる?」とセラ。 「ノア、います」 「ミオも」 「エリオットもいます。御者さんは?」 「ここにおります、殿下!」  御者の声に、ようやく息ができた。私は腕をつかんだままだったことに気づいて手を放す。彼の袖に、私の指の跡が残っていた。 「すみません、しわに」 「助けていただいた証拠ですね。修繕は必要ですか?」 「しわなら、お茶の湯気で何とかなるかもしれません」 「では、お茶の価値が上がりました」  笑おうとしたけれど、喉がうまく動かなかった。彼も無理に笑わせようとはせず、袋の口の結び目を確かめてくれた。  坂の上で馬車が速度を落とす。霧は谷間を白く埋めていたが、こちらにはまだ届いていない。ノアは帳面を開き、道の形と霧の位置、聞こえた鐘の数を書き留めた。 「四回目は、いつもより遅かった。理由はわからないけど」 「わからないまま書いておくのも大事ね」とセラが言った。  私は袋の結び目に触れた。中の線が何を意味するのか、あの鐘が何を知らせたのか、まだ誰にもわからない。それでも街の人たちから預かったものを、無事に持ち帰らなくては。  王宮の門が見え始めたころ、向こうから数騎の衛兵が駆けてきた。先頭の兵士は馬車の前で手を上げ、厳しい顔で告げる。 「殿下。宰相閣下より、発見された図を直ちにお持ちするよう命じられております」  エリオットの手が、袋を守るように私の手の上へ重なった。

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