明日を縫う、忘却の花嫁

第33話 消された名前の写し

 約束のお茶が冷める前に、レオンは工房へ来た。 「お邪魔します。これは設計図の話ではありません」  そう前置きして、彼は古い紙を机に置いた。ノアが椅子から身を乗り出し、セラは兄の手元を見て息を止める。  避難者名簿の写しだった。名前の列のところどころに、横線が引かれている。線の下にも字は読めた。 「この人たちは?」 「霧害のあと、避難所にいたと記された人々です。後の公式名簿には載っていません」  私は紙の端に触れかけ、手を止めた。名簿にない住民を、ノアの絵で見つけた日のことを思い出す。あのときレオンは調査を拒んだ。 「消えたんじゃなくて、消されたんですか」 「少なくとも、この写しに線を引いたのは人間です」  レオンは一つの名前を指した。「ここは私が処理しました」  工房の窓で、風が硝子を鳴らした。 「避難者の人数を減らすよう命じられました。重複や転居の確認という名目でしたが、確認できないまま削った名前もある。私は数字を整え、上に提出した」 「なぜ」  ノアの声は静かだった。怒鳴られるより、答えにくそうにレオンは口を閉じる。 「霧害が小さく見えれば、王宮の結界への不信を抑えられる。そう説明されました。私は記録官なのに、確かめるより命令を守るほうを選んだ」 「兄さんは、知らなかったわけじゃないのね」  セラの問いに、彼は頷いた。 「疑っていた。それでも署名した」  エリオットが名簿に目を落とす。「原本はどこに」 「保管先を調べています。この写しだけでは、誰がいつ何を命じたか、全部は証明できません。ですが、原本と処理の記録を探し出し、私がしたことも含めて公開します」 「公開すれば、あなた自身も責任を問われます」 「問われるべきです」  簡単な答えではなかったのだろう。紙を押さえる指が白くなっていた。  ノアは自分の鞄から、避難所で描いた肖像画を取り出した。以前レオンが密かに持ち帰った絵とは別の一枚だ。絵の隅に、小さな椅子と、その隣に立つ人が描いてある。 「この人、名前を聞いたとき、すぐには答えてくれませんでした。誰も呼ばないから、自分でも確かじゃなくなったって」  名簿の一行を探し、彼は指を置いた。 「同じ名前があります。でも、これだけで同じ人だとは決められない。本人に聞いていいですか」 「ええ。ただし、ここに載っていることを、本人の許しなく広めないでください」  レオンは紙をノアのほうへ押し出した。「写しはミオさんに預けます。私の手元だけに置いておくべきではありません」 「被害に遭った人たちには、どう伝えるんですか」  私が尋ねると、彼は少し考えた。 「まず、記録の訂正を求める方法を用意したい。名乗り出ること自体が負担になる人もいるでしょう。誰かに証言を強いる形にはしたくありません」 「それも、住民の人たちに相談しましょう」とセラが言う。「私たちだけで決めないで」  レオンは妹を見て、深く頷いた。セラは許したとは言わなかった。けれど、机の上で丸まる紙の端を、錘代わりの糸巻きで押さえた。 「原本を探すのは手伝えますか」  エリオットの問いに、レオンは首を振る。 「殿下のお名前が先に出れば、保管先を移されるかもしれません。まずは私が記録の所在を確かめます。見つけたら必ずお知らせします」  王子はしばらく黙り、それから「わかりました」と答えた。「必要な保護や手続きは、一緒に考えましょう」  レオンが帰ると、ノアは名簿の線をもう一度見つめた。 「線を消しても、なかったことにはならないんだね」 「うん。消した人がいたことも、呼ばれずにいた時間も」  私にはあの職人の娘の顔が浮かんだ。黒い糸を切っても、奪われた記憶は戻らなかった。間違いを認めることは、戻らないものを戻す魔法じゃない。それでも、次に何をするかを決めるために必要なのだ。  冷めたお茶を飲むと、エリオットが申し訳なさそうに笑った。 「今度こそ淹れ直しましょうか」 「私も手伝います。茶葉の量だけは、殿下に任せませんけど」 「前回のことをまだ覚えていたんですね」 「苦い記憶ほど残るみたいです」  ノアが吹き出し、セラも口元を緩めた。ほんの少しの笑いのあと、私たちは誰に何を尋ねるか、紙を分けて書き始めた。  その夜、街へ送るセラの手紙に、名簿の件も加わった。返せていない設計図のこと。記録から消された名前があること。そして、知らせるかどうかは受け取った人自身に選んでほしいということ。  私は写しを布で包み、戸棚にしまった。封印された設計図には触れられない。それでも、目の前に残された名前から始めることはできる。  戸を閉めようとしたとき、セラが作業台の端切れを見つめて言った。 「設計図の線を調べなくても、二枚の布を結ぶことならできるかしら」  私は彼女を振り返った。街の子どもたちの腕輪、その結び目のそばで薄くなった霧を思い出す。 「試す前に、危険も考えましょう」 「ええ。願いを預ける人の同意もね」  小さな布が二枚、まだ離れたまま机に並んでいた。

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