明日を縫う、忘却の花嫁

第5話 旗に残る黒い糸

訓練用の旗は、思っていたより大きかった。 作業台に広げると、青い布を斜めに裂け目が走っている。 銀糸で刺した鳥の羽も、片方だけ途中で途切れていた。 「昨日の訓練で、槍に引っかけたそうです」 セラは破れ目を押さえた。 「繕えますか?」 「布は直せます。 でも、これも暁布なんですか?」 「旗そのものは普通の布です。 ただ、持ち主が願いを込めた糸を飾りに使っていると聞いています。 気をつけて」 裂け目に触れると、指先にかすかな温もりが伝わった。 誰かが、遠くの家へ帰ろうとしている。 そんな気配。 ルカの上着を縫ったとき、私はそれが願いだと知らなかった。 知らないまま手を動かして、たまたま喜んでもらえた。 それだけだ。 「持ち主の方に会えますか。 布を直していいかも、願いを縫っていいかも、聞きたいです」 セラは少し眉を上げた。 「いいでしょう。 中庭にいるはずです」 エリオットが扉を押さえてくれる。 「僕も同行します。 旗が僕の腕前を見て逃げないように」 「殿下に針を渡す予定はありません」 「先手を打たれましたね」 中庭では、若い兵士が木槍を片づけていた。 旗の持ち主だと名乗った彼は、裂けた布を見るなり肩を落とす。 「俺の不注意です。 母が縫ってくれた鳥なのに」 「お母さんの刺繍なんですね」 「入隊の日に。 毎年、収穫祭には帰ってこいって。 俺も帰りたいと願いながら、この銀糸を縫いました」 私は旗を持ち直した。 「破れたところを直してもいいですか。 それから、銀糸に込めた願いがほどけないよう、縫い留めても?」 兵士はすぐには答えなかった。 私も待った。 彼が旗を見つめ、鳥の残った羽をそっと撫でる。 「お願いします。 ただ、うまくできなくても、鳥の形は変えないでほしい」 「はい。 変えない方法を考えます」 工房へ戻り、私は裂けた端を合わせた。 引っ張って塞ぐだけでは鳥の形が歪む。 裏に薄い補強布を当て、力が一点に集まらないよう、細い糸で少しずつ留めていく。 セラが隣から覗いた。 「なぜ最初に選んだ糸を使わないのです?」 「丈夫ですが、この旗には太すぎました。 試験の前に選んだからって、合わないまま使うのは違うと思って」 「選び直すのも判断です」 その言葉に背筋を伸ばし、私は針を進めた。 銀糸の切れたところに近づくと、温もりが再び指先に集まる。 収穫祭に帰りたい。 本人の口から聞いた願いを思い浮かべ、私は銀糸の端を新しい糸でそっと支えた。 針を返し、一目ずつ。 願いを大きくしたり、別のものに変えたりはしない。 ただ、ここに留まれるように。 最後に旗を持ち上げる。 裂け目は見えにくくなり、鳥の羽も両方、風を受ける形に戻っていた。 兵士を呼ぶと、彼は旗を両手で受け取った。 「鳥が、ちゃんと帰ってきた」 「帰るのはあなたでしょう」とセラが言う。 「はい。 休みをもらえるよう、訓練も頑張ります」 兵士が出ていくと、セラは私の縫い目を裏から表から調べた。 「補強も適切です。 本人に確認し、望みを聞いてから縫った。 合格とします」 「本当ですか!」 思わず立ち上がると、膝が作業台にぶつかった。 エリオットが笑いをこらえながら椅子を引いてくれる。 「合格祝いに、机を壊さないでいただけると助かります」 「善処します」 セラも小さく息をついた。 「書庫への問い合わせは進めます。 あなたには工房の手伝いを、できる範囲でお願いします。 ただし、願いを扱うときは必ず相談してください」 「はい。 ありがとうございます」 片づけのため、私は机に残った糸くずを集めた。 その中に、一本だけ妙に黒い糸が混じっていた。 さっき使った糸は青と白、そして銀色。 黒は選んでいない。 「セラさん、これ……」 彼女は振り返り、私の掌を見る。 その表情から、笑みが消えた。 「どこにありましたか」 「旗を置いていたところです。 でも、最初からあったのか、縫っている間に出てきたのかは、わかりません」 セラはすぐには糸に触れなかった。 窓の向こうでは、兵士の持つ旗が風にはためいている。 「その糸を、捨てずに置いてください」 私は頷き、黒い糸を白い端切れの上にそっと置いた。 旗は無事に見えた。 それなのに、セラの硬い声だけが、工房に残った。

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