明日を縫う、忘却の花嫁

第6話 名前を呼ぶ場所

黒い糸は、白い端切れの上でひどく細く見えた。 セラは布ごと小箱に収め、蓋を閉めた。 「調べます。あなたが縫ったせいだと、今は決めつけないでください」 「でも、旗のそばにあったんです」 「だからこそ、決めつけずに調べるのです」 返事に困っていると、工房の扉が叩かれた。顔を出したエリオットは、私と箱を見比べる。 「セラ、彼女を半日借りても?」 「針を持たせない用事なら」 「それは現地の状況次第です。避難所へ行きます」 霧に追われた人たちが暮らす場所。王子がそこを訪ねるという。 セラは少し考えてから私に外套を渡した。「困ったら一人で判断せず、戻ってきて」 「はい」 箱の中身が気になったまま、私は袖を通した。 ◇ 避難所は、かつて穀物を納めていた大きな倉庫だった。窓には布が張られ、入口では鍋から湯気が上がっている。 王宮の馬車を見た人たちが、道をあけた。歓迎というより、何を言われるのか待ち構えているように見えた。 「お出迎えは不要ですよ」とエリオットが言う。 「炊き出しの列を崩さないでください。僕は最後尾に並ぶ練習をしてきました」 「殿下の列は、だいたい殿下を先頭にできますけどね」 鍋をかき混ぜる女性が言い返す。エリオットは負けを認めるように両手を上げた。 それでも女性の笑顔は長く続かなかった。 「今朝、また一人、寝床が空いていました。荷物はあるのに、隣に誰がいたか、誰もはっきり言えないんです」 「ご本人は?」 「裏手にいます。名前を呼ばれないから、自分で名乗って回っていて」 私は女性について倉庫の裏へ行った。洗濯桶のそばで、年配の男性がシャツを絞っている。袖口には小さな青い貝殻の飾りが縫いつけられていた。 「こんにちは」と私が声をかけると、男性は手を止めた。 「こんにちは。私は……」 彼は胸元を探り、何もないことに気づいて眉を寄せる。 「名前は覚えていますよ。ただ、昨日も同じことを何度も言ったので、また忘れられたかと思って」 「聞いてもいいですか」 「トマスです。トマス・ベル」 「私はミオです。こちらはエリオットさん」 王子が会釈する。トマスさんは濡れた手を慌てて拭おうとしたが、エリオットは首を振った。 「そのままで。洗濯の途中に失礼しました、トマスさん」 名前を呼ばれると、男性の肩から少し力が抜けた。 シャツの袖口がほつれていたので、私は尋ねた。 「そこ、繕いましょうか。飾りは外さずに」 「いいんですか。妻が海を見た日に拾った貝でね。ああ、妻の名前も覚えています。私が忘れたわけじゃない」 最後の言葉は、何度も説明した人の声だった。 私は頷き、ただ布を直す許しをもらった。願いに触れるつもりはない。小さな貝を避けて袖を裏返し、縫い代を整える。 「妻は別の避難所に移ったはずです。手紙を頼んだんですが、宛名を見ても誰の話かわからないと言われて」 針先が止まりかける。彼の指が貝に触れた。 「私はここにいる。そう伝わればいいんですけど」 「手紙、もう一度書けますか」とエリオットが尋ねた。 「私が預かり、送り先を確認します。届くと約束する前に、今ある記録と道筋を調べたい」 「殿下が、ですか」 「僕の字が読みにくければ、別の人に頼みます」 トマスさんが初めて笑った。「自分で書きますよ」 縫い終えた袖を返すと、彼は貝を確かめた。飾りは元の場所で、濡れた光を返していた。 ◇ 倉庫へ戻る途中、エリオットが帳面を開いた。避難所ごとの人数が、整った字で並んでいる。 「今朝の報告では、ここには四十七人です」 炊き出しの女性に聞くと、今いるのは五十人ほどだという。ただし出入りもあり、数え直しが必要だった。 「記録にない人がいるのかもしれません」と私は言った。 「ええ。数を間違えたのか、記録した人が誰かを忘れたのか、それも確かめないと」 エリオットは帳面の余白に、トマス・ベルと書いた。本人に綴りを聞いてから。 「名簿に載れば、忘れられなくなりますか」 「それだけで防げるなら、よかったのですが」 彼は帳面を閉じた。静かな声だった。 「王宮には、足りない情報がある。僕は知っているつもりで、報告の数字を見ていました」 鍋の前では、配る側の女性が列の人に一人ずつ声をかけている。トマスさんが近づくと、彼女は少し戸惑い、それから袖の青い貝を見た。 「洗濯を手伝ってくれた方ですね」 「トマスです」 「トマスさん。今日は豆のスープですよ」 呼ばれた名前が、湯気の向こうに残った。 名前を書けばすべて戻るわけじゃない。それでも、呼ぶことから始められるのかもしれない。 「私にも、何か手伝えますか」 「なら、配るのをお願いしましょうか」と女性が言った。「ただ、名前を聞くときは、急かさないでくださいね」 私は頷いた。エリオットが私の隣で器を持つ。 「殿下は列に並ぶ練習をしたんですよね」 「配る練習も必要だと、今わかりました」 その日、私たちは何人もの名前を聞いた。名乗りたくない人には、無理に尋ねなかった。 帰り際、入口に小さな子が立っていた。私が目を合わせると、子は口を開き、すぐに閉じる。 「言わなくても大丈夫だよ」 そう伝えると、子は袖を握ったまま、小さく首を振った。 「言いたいの。でも……名前を呼んでくれる人が、誰だったか、思い出せないの」 手にした空の器が、急に重くなった。 私はその子の前にしゃがんだ。答えを急いで探す代わりに、隣にいてもいいか尋ねた。 子が頷く。夕暮れの倉庫で、私たちは一緒に、温かいスープの匂いを吸い込んだ。

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