黒い糸は、白い端切れの上でひどく細く見えた。
セラは布ごと小箱に収め、蓋を閉めた。
「調べます。あなたが縫ったせいだと、今は決めつけないでください」
「でも、旗のそばにあったんです」
「だからこそ、決めつけずに調べるのです」
返事に困っていると、工房の扉が叩かれた。顔を出したエリオットは、私と箱を見比べる。
「セラ、彼女を半日借りても?」
「針を持たせない用事なら」
「それは現地の状況次第です。避難所へ行きます」
霧に追われた人たちが暮らす場所。王子がそこを訪ねるという。
セラは少し考えてから私に外套を渡した。「困ったら一人で判断せず、戻ってきて」
「はい」
箱の中身が気になったまま、私は袖を通した。
◇
避難所は、かつて穀物を納めていた大きな倉庫だった。窓には布が張られ、入口では鍋から湯気が上がっている。
王宮の馬車を見た人たちが、道をあけた。歓迎というより、何を言われるのか待ち構えているように見えた。
「お出迎えは不要ですよ」とエリオットが言う。
「炊き出しの列を崩さないでください。僕は最後尾に並ぶ練習をしてきました」
「殿下の列は、だいたい殿下を先頭にできますけどね」
鍋をかき混ぜる女性が言い返す。エリオットは負けを認めるように両手を上げた。
それでも女性の笑顔は長く続かなかった。
「今朝、また一人、寝床が空いていました。荷物はあるのに、隣に誰がいたか、誰もはっきり言えないんです」
「ご本人は?」
「裏手にいます。名前を呼ばれないから、自分で名乗って回っていて」
私は女性について倉庫の裏へ行った。洗濯桶のそばで、年配の男性がシャツを絞っている。袖口には小さな青い貝殻の飾りが縫いつけられていた。
「こんにちは」と私が声をかけると、男性は手を止めた。
「こんにちは。私は……」
彼は胸元を探り、何もないことに気づいて眉を寄せる。
「名前は覚えていますよ。ただ、昨日も同じことを何度も言ったので、また忘れられたかと思って」
「聞いてもいいですか」
「トマスです。トマス・ベル」
「私はミオです。こちらはエリオットさん」
王子が会釈する。トマスさんは濡れた手を慌てて拭おうとしたが、エリオットは首を振った。
「そのままで。洗濯の途中に失礼しました、トマスさん」
名前を呼ばれると、男性の肩から少し力が抜けた。
シャツの袖口がほつれていたので、私は尋ねた。
「そこ、繕いましょうか。飾りは外さずに」
「いいんですか。妻が海を見た日に拾った貝でね。ああ、妻の名前も覚えています。私が忘れたわけじゃない」
最後の言葉は、何度も説明した人の声だった。
私は頷き、ただ布を直す許しをもらった。願いに触れるつもりはない。小さな貝を避けて袖を裏返し、縫い代を整える。
「妻は別の避難所に移ったはずです。手紙を頼んだんですが、宛名を見ても誰の話かわからないと言われて」
針先が止まりかける。彼の指が貝に触れた。
「私はここにいる。そう伝わればいいんですけど」
「手紙、もう一度書けますか」とエリオットが尋ねた。
「私が預かり、送り先を確認します。届くと約束する前に、今ある記録と道筋を調べたい」
「殿下が、ですか」
「僕の字が読みにくければ、別の人に頼みます」
トマスさんが初めて笑った。「自分で書きますよ」
縫い終えた袖を返すと、彼は貝を確かめた。飾りは元の場所で、濡れた光を返していた。
◇
倉庫へ戻る途中、エリオットが帳面を開いた。避難所ごとの人数が、整った字で並んでいる。
「今朝の報告では、ここには四十七人です」
炊き出しの女性に聞くと、今いるのは五十人ほどだという。ただし出入りもあり、数え直しが必要だった。
「記録にない人がいるのかもしれません」と私は言った。
「ええ。数を間違えたのか、記録した人が誰かを忘れたのか、それも確かめないと」
エリオットは帳面の余白に、トマス・ベルと書いた。本人に綴りを聞いてから。
「名簿に載れば、忘れられなくなりますか」
「それだけで防げるなら、よかったのですが」
彼は帳面を閉じた。静かな声だった。
「王宮には、足りない情報がある。僕は知っているつもりで、報告の数字を見ていました」
鍋の前では、配る側の女性が列の人に一人ずつ声をかけている。トマスさんが近づくと、彼女は少し戸惑い、それから袖の青い貝を見た。
「洗濯を手伝ってくれた方ですね」
「トマスです」
「トマスさん。今日は豆のスープですよ」
呼ばれた名前が、湯気の向こうに残った。
名前を書けばすべて戻るわけじゃない。それでも、呼ぶことから始められるのかもしれない。
「私にも、何か手伝えますか」
「なら、配るのをお願いしましょうか」と女性が言った。「ただ、名前を聞くときは、急かさないでくださいね」
私は頷いた。エリオットが私の隣で器を持つ。
「殿下は列に並ぶ練習をしたんですよね」
「配る練習も必要だと、今わかりました」
その日、私たちは何人もの名前を聞いた。名乗りたくない人には、無理に尋ねなかった。
帰り際、入口に小さな子が立っていた。私が目を合わせると、子は口を開き、すぐに閉じる。
「言わなくても大丈夫だよ」
そう伝えると、子は袖を握ったまま、小さく首を振った。
「言いたいの。でも……名前を呼んでくれる人が、誰だったか、思い出せないの」
手にした空の器が、急に重くなった。
私はその子の前にしゃがんだ。答えを急いで探す代わりに、隣にいてもいいか尋ねた。
子が頷く。夕暮れの倉庫で、私たちは一緒に、温かいスープの匂いを吸い込んだ。