明日を縫う、忘却の花嫁

第7話 札に書けないもの

「名前を書いた札を、服につけるのはどうでしょう」 翌朝、避難所の長机に端切れを広げると、炊き出しの女性が首をかしげた。 「名乗るのがつらい人もいますよ」 「つけたい人だけにします。名前以外でも、何も書かなくても」 昨日、名前を呼んでくれる人を思い出せないと言った子のことが、ずっと胸に残っていた。札があれば声をかけるきっかけになるかもしれない。けれど、つけたくない人の事情もある。 女性は端切れを手に取った。「それなら、希望を聞いて回りましょうか」 糸を通す穴を補強し、角を丸く縫う。文字は本人に書いてもらい、必要なら手伝う。布の残りを使う許可も、管理を任された人からもらった。 「これ、僕が描いてもいい?」 窓から顔を出したのはノアだった。配達袋から紙と鉛筆を取り出す。 「文字が苦手な人には、好きな絵を描くとか」 「いいね。でも、勝手に決めないで聞こう」 「わかってるよ。僕だって、知らない人に変な似顔絵をつけられたくないし」 「ノアの描く変な似顔絵、ちょっと見たいな」 「王子様に頼んでみたら?」 冗談を言い合いながら、私たちは札を籠に並べた。 ◇ 昨日の子は、窓際で毛布を畳んでいた。名前はリラだと教えてくれた。私が札を見せると、しばらく布を撫でてから言った。 「リラって書いて。あと、黄色い花」 ノアが花を描き、私が名前を書く。リラは自分の胸に札を当てて、照れたように笑った。 「呼んでみてもいい?」 「うん」 「リラ」 返事は小さかったけれど、確かに聞こえた。 昼すぎ、トマスさんが洗い物の桶を抱えて通りかかった。青い貝のついた袖口を見て、私は声をかける。 「奥さまへの手紙は?」 「殿下が行き先を調べてくださるそうです。私も名前を書いた札をもらえますか」 本人に綴りを確認して書くと、彼は札を上着につけた。「これで少しは楽になるかな」 ところが、そのあとだった。 炊き出しの女性が彼の名札を見て、丁寧に言った。「トマスさん、お水はこちらに」 彼は礼を言って桶を受け取った。女性が去ると、私にだけ聞こえる声で尋ねた。 「あの人は、私が昨日も洗濯を手伝ったことを覚えているでしょうか」 言葉に詰まった。女性は昨日、確かに彼と話していた。けれど今日は札を読んで名前を呼んだのかもしれない。 「名前を呼んでもらえて嬉しいんです。ただ、私が誰かを知ってもらえたのかと思うと……欲張りですね」 「欲張りじゃないと思います」 札は名前を伝えられる。でも昨日の会話も、洗濯を手伝った時間も、そこには書かれていない。書いたとしても、読んだだけで同じ記憶が戻るわけではない。 私は札の角を見つめた。丁寧に縫った小さな四角が、ひどく頼りなく思えた。 「トマスさんがよければ、私から昨日のことを話してもいいですか。忘れてしまったことを責めるためじゃなくて」 彼は少し考え、「お願いします」と頷いた。 女性は話を聞くと、何度も眉を寄せた。 「ごめんなさい。水を運んでくれた方がいたのは覚えているのに、それがトマスさんだったとは」 「謝ってほしいわけじゃないんです」と彼は言った。「今日は一緒に桶を運びませんか。重いので」 「それなら、ぜひ」 二人が桶を持ち上げる。昨日が戻ったわけではない。それでも今日、二人で運ぶ水の重さは同じだった。 ◇ 夕方、ノアは机の隅で紙を伏せていた。 「花の絵、評判よかったよ」と言うと、彼は返事の代わりに紙を裏返した。 そこには女性の輪郭が、何度も消しては描き直されていた。顔の部分だけが白い。 「母さんの顔、描こうと思ったんだ」 鉛筆を握る指が止まる。 「僕、絵は得意なのに。母さんが好きだった色も、声も、たまに思い出せそうで、すぐに逃げる。忘れたのは僕なのに、周りの人に聞くのも怖い」 「どうして?」 「息子なのに覚えてないのかって、思われそうで」 窓の外で、誰かが名前を呼んだ。答える声が続く。ノアはその音を聞きながら、紙の白い場所を指で押さえた。 「霧のせいだって、みんな言う。でも、母さんを大事にしてたら、ひとつくらい残せたんじゃないかって」 私はすぐに否定できなかった。失った本人が抱えてきた時間を、一言で軽くするのが怖かった。 「覚えていないことが、ノアが大事にしていなかった証拠だとは思わない」 彼は目を伏せたまま、鉛筆を転がした。 「でも、思い出せないのは本当だよ」 「うん。そこは、私にも埋められない」 札を渡すことはできる。誰かに話を聞くのを手伝うこともできる。でも、彼の中の空白を、なかったことにはできない。 「今は絵を完成させなくてもいいと思う。聞きたくなったら、一緒に聞きに行くよ」 ノアはしばらく黙り、それから紙を折らずに袋へしまった。 「……そのときは、お願い」 入口から足音がした。エリオットが濡れた外套を脱ぎ、私たちを見つける。 「トマスさんの奥さまの避難先がわかりました。明日、手紙を届ける人を手配できます」 「会えるんですか」と私は尋ねた。 「まずは手紙を。先方の都合も確認します」 彼は籠に残った名札を一枚持ち上げた。「これは?」 説明すると、彼はうなずいたが、私の顔を見て手を止めた。 「何かありましたか」 「名前を呼べても、忘れた時間は戻らないんですね」 「ええ」 慰めの言葉を急がないところが、彼らしいと思った。 「それでも、札を選んだ人がいる。役に立ったことと、足りないことの両方を覚えておきましょう」 エリオットは札を籠に戻す。私はその隣に、まだ文字のない端切れを置いた。 帰り支度を始めたとき、入口で人々の声が高くなった。王宮の使者が到着したらしい。 外套についた霧の水滴を払い、使者はエリオットに封書を差し出した。 「宰相閣下からです。異邦の縫い手殿にも、明朝お越しいただきたいと」 封を開いた王子の表情から、さっきまでの柔らかさが消えた。 「避難所のことですか」と私が聞く。 「暁布の補修について、とあります」 使者は私を見た。「閣下は、あなたのお力が王国の助けになるとお考えです」 助けになる。それは嬉しいはずの言葉だった。 けれど、私が何を望むのか、手紙にはまだ書かれていなかった。

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