「名前を書いた札を、服につけるのはどうでしょう」
翌朝、避難所の長机に端切れを広げると、炊き出しの女性が首をかしげた。
「名乗るのがつらい人もいますよ」
「つけたい人だけにします。名前以外でも、何も書かなくても」
昨日、名前を呼んでくれる人を思い出せないと言った子のことが、ずっと胸に残っていた。札があれば声をかけるきっかけになるかもしれない。けれど、つけたくない人の事情もある。
女性は端切れを手に取った。「それなら、希望を聞いて回りましょうか」
糸を通す穴を補強し、角を丸く縫う。文字は本人に書いてもらい、必要なら手伝う。布の残りを使う許可も、管理を任された人からもらった。
「これ、僕が描いてもいい?」
窓から顔を出したのはノアだった。配達袋から紙と鉛筆を取り出す。
「文字が苦手な人には、好きな絵を描くとか」
「いいね。でも、勝手に決めないで聞こう」
「わかってるよ。僕だって、知らない人に変な似顔絵をつけられたくないし」
「ノアの描く変な似顔絵、ちょっと見たいな」
「王子様に頼んでみたら?」
冗談を言い合いながら、私たちは札を籠に並べた。
◇
昨日の子は、窓際で毛布を畳んでいた。名前はリラだと教えてくれた。私が札を見せると、しばらく布を撫でてから言った。
「リラって書いて。あと、黄色い花」
ノアが花を描き、私が名前を書く。リラは自分の胸に札を当てて、照れたように笑った。
「呼んでみてもいい?」
「うん」
「リラ」
返事は小さかったけれど、確かに聞こえた。
昼すぎ、トマスさんが洗い物の桶を抱えて通りかかった。青い貝のついた袖口を見て、私は声をかける。
「奥さまへの手紙は?」
「殿下が行き先を調べてくださるそうです。私も名前を書いた札をもらえますか」
本人に綴りを確認して書くと、彼は札を上着につけた。「これで少しは楽になるかな」
ところが、そのあとだった。
炊き出しの女性が彼の名札を見て、丁寧に言った。「トマスさん、お水はこちらに」
彼は礼を言って桶を受け取った。女性が去ると、私にだけ聞こえる声で尋ねた。
「あの人は、私が昨日も洗濯を手伝ったことを覚えているでしょうか」
言葉に詰まった。女性は昨日、確かに彼と話していた。けれど今日は札を読んで名前を呼んだのかもしれない。
「名前を呼んでもらえて嬉しいんです。ただ、私が誰かを知ってもらえたのかと思うと……欲張りですね」
「欲張りじゃないと思います」
札は名前を伝えられる。でも昨日の会話も、洗濯を手伝った時間も、そこには書かれていない。書いたとしても、読んだだけで同じ記憶が戻るわけではない。
私は札の角を見つめた。丁寧に縫った小さな四角が、ひどく頼りなく思えた。
「トマスさんがよければ、私から昨日のことを話してもいいですか。忘れてしまったことを責めるためじゃなくて」
彼は少し考え、「お願いします」と頷いた。
女性は話を聞くと、何度も眉を寄せた。
「ごめんなさい。水を運んでくれた方がいたのは覚えているのに、それがトマスさんだったとは」
「謝ってほしいわけじゃないんです」と彼は言った。「今日は一緒に桶を運びませんか。重いので」
「それなら、ぜひ」
二人が桶を持ち上げる。昨日が戻ったわけではない。それでも今日、二人で運ぶ水の重さは同じだった。
◇
夕方、ノアは机の隅で紙を伏せていた。
「花の絵、評判よかったよ」と言うと、彼は返事の代わりに紙を裏返した。
そこには女性の輪郭が、何度も消しては描き直されていた。顔の部分だけが白い。
「母さんの顔、描こうと思ったんだ」
鉛筆を握る指が止まる。
「僕、絵は得意なのに。母さんが好きだった色も、声も、たまに思い出せそうで、すぐに逃げる。忘れたのは僕なのに、周りの人に聞くのも怖い」
「どうして?」
「息子なのに覚えてないのかって、思われそうで」
窓の外で、誰かが名前を呼んだ。答える声が続く。ノアはその音を聞きながら、紙の白い場所を指で押さえた。
「霧のせいだって、みんな言う。でも、母さんを大事にしてたら、ひとつくらい残せたんじゃないかって」
私はすぐに否定できなかった。失った本人が抱えてきた時間を、一言で軽くするのが怖かった。
「覚えていないことが、ノアが大事にしていなかった証拠だとは思わない」
彼は目を伏せたまま、鉛筆を転がした。
「でも、思い出せないのは本当だよ」
「うん。そこは、私にも埋められない」
札を渡すことはできる。誰かに話を聞くのを手伝うこともできる。でも、彼の中の空白を、なかったことにはできない。
「今は絵を完成させなくてもいいと思う。聞きたくなったら、一緒に聞きに行くよ」
ノアはしばらく黙り、それから紙を折らずに袋へしまった。
「……そのときは、お願い」
入口から足音がした。エリオットが濡れた外套を脱ぎ、私たちを見つける。
「トマスさんの奥さまの避難先がわかりました。明日、手紙を届ける人を手配できます」
「会えるんですか」と私は尋ねた。
「まずは手紙を。先方の都合も確認します」
彼は籠に残った名札を一枚持ち上げた。「これは?」
説明すると、彼はうなずいたが、私の顔を見て手を止めた。
「何かありましたか」
「名前を呼べても、忘れた時間は戻らないんですね」
「ええ」
慰めの言葉を急がないところが、彼らしいと思った。
「それでも、札を選んだ人がいる。役に立ったことと、足りないことの両方を覚えておきましょう」
エリオットは札を籠に戻す。私はその隣に、まだ文字のない端切れを置いた。
帰り支度を始めたとき、入口で人々の声が高くなった。王宮の使者が到着したらしい。
外套についた霧の水滴を払い、使者はエリオットに封書を差し出した。
「宰相閣下からです。異邦の縫い手殿にも、明朝お越しいただきたいと」
封を開いた王子の表情から、さっきまでの柔らかさが消えた。
「避難所のことですか」と私が聞く。
「暁布の補修について、とあります」
使者は私を見た。「閣下は、あなたのお力が王国の助けになるとお考えです」
助けになる。それは嬉しいはずの言葉だった。
けれど、私が何を望むのか、手紙にはまだ書かれていなかった。