「協力していただきたいのです」
宰相オルフェンは、私の前に広げられた布を指した。
朝の会議室は、窓を閉めきっているのに冷えていた。卓上の布は陽の色をしているが、端には細い裂け目がいくつも走っている。
「王国を守る暁布の一部です。補修が追いつかなければ、霧はさらに広がるでしょう」
彼の声は穏やかだった。だからこそ、断ったときに何が起きるのか、聞きそびれそうになる。
「私に、何を縫わせたいんですか」
「布に願いを留める。あなたが市場でなさったように」
あの子の上着。朝ごはんを母親と食べたいという願い。助けられたと思った一方で、私は自分が何をしたのか、あとから知った。
「願いの持ち主は、ここにいるんですか」
「必要な願いは王宮で集めます。あなたは縫うことに専念なさい」
「集め方は?」
オルフェンは一瞬だけ目を細めた。「今は時間が惜しい。詳しい手順は筆頭縫い手から聞けばよろしい」
セラは窓際に立ったまま、布から視線を外さなかった。
私が次の言葉を探すより先に、隣のエリオットが口を開く。
「閣下。ミオに説明もなく仕事を任せるおつもりですか」
「説明はしております。王国のためです」
「何を、誰のために、どんな危険を伴って縫うのか。彼女が引き受けるかどうかは、その後に決めることです」
オルフェンの手が、卓上で組み直された。
「殿下は市場の状況をご覧になった。避難所には今日も人が増えています。彼女が助けられるなら、ためらう理由がありますか」
「あります。助けを必要とする人がいるからといって、別の誰かの意思を飛ばしてよい理由にはなりません」
王子の横顔を見た。昨日、トマスさんの手紙を届ける前に、奥さんの都合を確かめると言っていた。そのときと同じ、静かな声だった。
「殿下」
私は袖口を握る。「私も、聞きたいです。断ったら、避難所の人たちはどうなりますか」
オルフェンは布の裂け目を押さえた。
「補修は既存の縫い手が続けます。ただ、手は足りない。霧が広がれば、さらに避難が必要になるでしょう」
それは脅しのようにも、事実のようにも聞こえた。たぶん両方なのだと思う。
「私が縫えば、必ず防げますか」
今度はセラが答えた。
「必ずとは言えません。あなたの技術はまだ検証中です。布の状態によっては、縫い手にも負担がかかる」
「どんな負担ですか」
「疲労や集中力の低下。ほかにも、わかっていないことがあります」
彼女はそこで言葉を切った。もっと何か知っているのではないか、と感じたけれど、問い詰める前にオルフェンが立ち上がる。
「未知を恐れて手を止めれば、失うものが増えます」
「恐れるからこそ、確かめたいんです」
自分でも驚くほど、声は震えなかった。
「市場で子どもの上着を縫ったとき、私は願いを縫ったことすら知りませんでした。助けられてよかった。でも、知らないまま何度も同じことをしていいとは思えません」
エリオットは何も言わず、私が続けるのを待った。
「私にできることは探します。ただ、条件があります」
◇
紙と筆を借りると、宰相は意外そうに眉を上げた。
「口約束ではいけませんか」
「私、慣れない言葉を聞き間違えることがあるので。あとで一緒に確認できるようにしたいんです」
本当は、言った側が忘れたふりをできないようにしたかった。けれど、嘘ではない。
私は一つずつ書いた。
願いを縫うときは、持ち主がわかること。本人に説明し、同意を得ること。私にも作業の内容と、わかっている危険を知らせること。疑問があれば作業を止めて相談できること。
「避難所の手伝いも続けたいです。名札を欲しい人が、まだいます」
オルフェンは紙を読み、机に戻した。
「本人の同意を毎回取るとなれば、作業は遅れます」
「そうですね。でも、本人の願いなら、本人に聞きたいです」
「聞けない場合は?」
「今は縫いません。別の方法がないか考えます」
即答すると、セラがわずかに顔を上げた。
「それでは救えない人も出ます」と宰相は言った。
「はい。だから、私だけで決められる仕事にしないでください。セラさんたちと相談させてほしいんです」
胸の中で、リラの黄色い花が揺れた。トマスさんの名札も、ノアの描けなかった顔も。私はまだ、どれ一つ元どおりにはできていない。
それでも、誰かの大切なものを、本人抜きで扱いたくなかった。
長い沈黙のあと、エリオットが紙を指した。
「この条件を記録に残しましょう。私も確認します」
「殿下まで」
「私が立ち会えない日には、代わりの責任者を決める。彼女の帰還方法の調査も、以前の約束どおり続けます」
帰還。その言葉に、胸が小さく痛んだ。母の顔を思い浮かべる。帰りたい。けれど、今ここにいる人たちを見なかったことにもできない。
オルフェンはため息をついた。
「条件を飲みましょう。ただし、緊急時には改めて協議させていただきます」
「緊急時でも、私に説明してください」
「……承知しました」
彼は紙の末尾に署名した。エリオット、セラ、そして私も名前を書く。契約というほど立派な文書ではないかもしれない。それでも、言葉だけより少し重かった。
◇
会議室を出ると、廊下の窓から中庭が見えた。洗ったばかりの布が風を受けて膨らんでいる。
「助け舟、ありがとうございました」
私が言うと、エリオットは首を振った。
「条件を考えたのはあなたです」
「一人だったら、『王国のため』で押し切られてたかもしれません」
「私も、閣下に言い負かされることはありますよ」
「本当ですか?」
「今のところ、書類の束には一度も勝てていません」
思わず笑うと、彼も少しだけ口元を緩めた。
それから、彼は真面目な顔に戻る。
「協力を決めたあとでも、無理だと思ったら言ってください。私に言いにくければ、セラでも、別の人でも」
「殿下にも言います。たぶん、遠慮なく」
「それは頼もしい」
窓の向こうで、布の端が結び目から外れかけた。使用人が駆け寄り、落ちる前に結び直す。
「一箇所だけだと、ほどけやすいのかな」
私のつぶやきに、エリオットが外を見た。「風が強いですからね」
下の道では、避難所へ向かう荷車が列を作っていた。その荷台から小さな手が伸び、窓辺の私に向かって振られる。黄色い花の札をつけたリラだった。
私も手を振り返す。隣には、何色もの端切れを抱えた子どもたちがいる。
「あれ、何をするんでしょう」
「明日、避難所で聞いてみましょうか」
エリオットはそう言って、ほんの少しだけ言葉を止めた。けれどすぐに、荷車の行く先へ目を向ける。
私は署名した紙を胸に抱え直した。誰かに決められた仕事ではなく、自分で選んだ協力を始めるために。